「考える教育」。

先日テレビ番組を見ていて、というかまあ番組名を出してしまえば『世界一受けたい授業』を見ていたら、
「『虹』という字は二匹の龍が水を飲んでいる姿を表しているという説がある」と紹介していました。
ふーんと思いかけて、ん?と立ち止まったのですが。

『虹』が龍を表す意であることには異存はありません。『虫』は龍の意を持つ部首ですから。
ですが、考えてみると『虹』という字は形成文字、つまり、部首は意味を、つくりは音を表す字なので、
つくりの『工』は音を表しているはずで、実際『虹』の音読みは「コウ」です。
というわけで、冒頭に上げた説は???ということになります。

もっとも、ここで言いたいのは「間違いを放送するなんてけしからん」ということではありません。
そもそも、実は僕はこの番組があまり好きではありません。
(なのになぜ見ているかといえば、食事時に家族が見るのに付き合うからです)
なぜ好きでないかというと、知識を得るという目的で見るには、あまりに効率が悪すぎるからです。
ぶっちゃけ、見てる分にはNHK教育の番組の方がよっぽど面白くて、
深夜にテレビを付けたときに高校数学の番組なんかをやっていると、ついつい見てしまいます。
まあもちろん、見てる人は実のところ情報番組ではなくバラエティとして見てるんでしょうが、
それを割り引いても、僕にはあの『世界一受けたい授業』が受けたい授業だとはとても思えません。
あれは放送時間の正味40分強をいくつかのセクションに分けているから番組として成り立つのであり、
一人の講師が40分間あの形式で間を持たせろと言われたら、おそらく引き受け手はないでしょう。

その理由は、「あまりに効率が悪すぎる」と述べたのと同じで、
あの番組の内容は基本的に雑学的知識の羅列なのです。
雑学的知識とは、言い換えれば「一対一対応の知識」です。
内容が限定されていて、奥行きもなければつながりもない。
「『虹』という字は二匹の龍が水を飲んでいる姿を表している」という知識は、
要するにそれだけで、知ったとしてもふーんで済んでしまいます。
最初のうちはそれがある程度刺激的かもしれませんが、
やがて受け手は当然刺激に飽きて、退屈してしまいます。

それに対して、「形成文字は、部首は意味を、つくりは音を表す字である」という知識は、
まずもって、それ自体応用が利きます。
ここで大事なのは「応用」ということであって、つまり「知識をさまざまな場面で適用するために
自分で当てはめて考える必要がある」ということです。

そしてもうひとつ、仮に教師が「形成文字」について説明するとした時に、
どちらが先かどうかはともかく、必ず「ルール」と「具体例」の形で生徒に提示するはずです。
たとえば、『泳』=水+永、『坂』=土+反、「煮」=火+者のように。
つまり、「形成文字」という一般化された概念を説明するために、具体例から帰納するなり、
概念から演繹するなりという手順を必ず踏むことになります。

この種の一般化された概念は、「考える」というワンクッションを置くだけに、
受け手の側が主体的に受容しようとしないとなかなか身につきませんが
(だからテレビ番組、特にバラエティーには向かない)、
雑学的知識とはまた別の種類の刺激を受け手に与えることができます。
それを教育においては「手ごたえ」などと表現するわけです。

世の中に流布する思い込みというか間違いに、
「知識重視」=「暗記」=「思考力をおろそかにした教育」という考え方があります。
これは大きな誤解で、「物を効率的に覚える」作業には必ず「体系化」と「一般化」がともなうし、
「覚えた知識を活用する」ためには、必ず物を考える必要があります。
正直なところ、上記のような思い込みがある人というのは、
本人が丸暗記=一対一対応で物を覚えることしかしてこなかったか、
そういうやり方で物を教える先生に当たってしまったかのどちらかではないかと思います。
僕なんかは、「知識重視」の教育でだって十分に論理的思考力というのは身につくし、
それは教育内容の問題ではなく、教え手と受け手の発想の問題ではないかと思ってしまうのですが。
というか、ぶっちゃけた話、論理的思考法というものを身につけていない小学生相手に、
むりやり考えさせたところで、どうせろくなことにならないと思うんですけどねえ。