「私」指数。

昨日は塾で人称代名詞を教えていました。
「I,my,me,mine」ていうあれですね。
70年代生まれの身としては、ついついラ・ムーの「愛は心の仕事です」の節で歌いたくなります。
ま、今の子どもにそれが何か説明するのは不可能なので、やりませんけど。
てゆーか、僕にしたところでこのサビのところしか覚えてないしなあ(笑)。

もう一時代前になると、きっとビートルズの「I Me Mine」でしょうか。
「朝から晩まで『オレ、オレ、オレ』~」というへんてこりんな歌ですね。好きですけど。

と、ここまでは前振り(?)で、本題はタイトルに掲げた「『私』指数」です。
「私」指数というのは僕の造語ですが、
定義としては「会話の話題に占める『私』の比率」だと思って下さればよろしいかと。
特に二者間で交わされる会話の場合です。

この数字が何を意味するかというと、おそらくは「話し手の自意識のありよう」なのだと思います。
わかりやすい例を出すと、たとえば初対面や付き合いの薄い相手との会話。
一般的に、こういった場面での基本的な会話への入り方は「相手への問いかけ」であり、
会話の回し方についても同様です。
それは、大人の世界ではおそらくマナーに準じるような作法ですらあると思うのですが、
その効用は、相手に対する興味関心の表明にあります。
つまり、質問を投げかけることで、「私はあなたのことが知りたいですよ」と意思表示できるわけです。

逆にいうと、その姿勢の裏には「他者は基本的に私のことになんか興味はない」という自意識があります。
にもかかわらず「私はあなたのことが知りたいですよ」と意思表示することは、
それ自体がある種の好意的態度の表明でもあるわけです。

これに対して、のっけから「私」指数の高い人というのは、
言ってみれば「私は基本的に他者のことになんか興味はない」と態度表明しているようなものです。
そして、だいたい「私」指数は上がることはあっても下がることはないので(笑)、
だんだん相手をしているうちに疲れてくる…という仕組み。
そりゃあねー、なんで自分への興味がない他人の話を延々聞かにゃならんのだ、って話ですよ。

もちろん、あんまり「私」指数が低すぎると、今度は聞いてるほうもつまらないわけで、
(要するに「自己主張のない人」になってしまう)
さじ加減が難しいのはそうなんですが、
それにしても、やはり「私」指数は低め設定の方がよいのではなかろうか、
つまり、「他者は基本的に私のことになんか興味はない」という自意識を持って生きる方が
生きやすいのではないか、と思うのです。
なにより、「自分の話を興味をもって聞いてくれる人」のありがたみを
身にしみて感じることができますから。
本当に自分の話を聞いてくれる人が一人でもいれば、人間生きていける、と僕は思っています。

思うに、良好な二者間の人間関係というのは、
「私」指数が高い比率でつりあっている関係ではないかと思います。
そこに至るまでには、無意識のものであっても、深い相互理解と信頼とが必要なのでしょう。
そのためには長い時間が必要なことが多いですが、
本当にすっとそのレベルまで達することができる相手もいて、
そういう人とはきっと相性がいいってことなんでしょうね。