男性二人・女性一人のトライアングル。

「ドリカム状態」という言葉も、ずいぶん前にドリカム自体が男性1女性1という構成になったことで
死語となったでしょうか。
SMAPはかつて六人だった」という歴史上の事実よりは、まだ現代的話題な気もしますが。
 
でまあ、何について考えたいかというと、
「安定的に継続する男性二人・女性一人のトライアングル」についてです。
具体的に言うと、『ハリー・ポッター』シリーズのハリー・ロン・ハーマイオニー
 
「男性二人・女性一人」を描く場合、多くは「破綻するトライアングル」が描かれます。
ミュージカル『エリザベート』で
「昔からよくある話(中略)同じ女を愛する男が二人」と歌われているとおりです。
古くは『源氏物語』の宇治十帖(薫・匂宮・浮舟)ですし、
そのままだともはやありきたりになってしまうので、
ジーザス・クライスト・スーパースター』『日出処の天子』みたいに三角関係の支点を男性に変えたり、
(ユダ→イエスマグダラのマリア厩戸王子→蘇我毛人→布都姫)
『タッチ』みたいに崩壊のさせ方を変えて崩壊後を中心に描いてみたり、
バリエーションをいろいろと編み出すわけです。
 
これに対して、『ハリー・ポッター』の三人のトライアングルは何が違うのか。
実は、まったく同じ構成の三人を描いた日本の漫画があります。
それは『DRAGON QUEST -ダイの大冒険-』。
この作品、連載期間がジャンプ黄金時代だったこともあって他の名作に隠れ、
また、タイトルからしていかにもイロモノっぽい感じで少々損をしていますが、
かなり良く出来た名作です。
 
さてそれで、この作品のパーティーの中核は、
ダイ(男・勇者)
ポップ(男・魔法使い)
マァム(女・僧侶→武闘家)
の3人です。
で、ポップとマァムがくっついたのかどうかは明示はされませんが、まあそんな雰囲気でエンド。
ハリー=ダイ、ロン=ポップ、ハーマイオニー=マァムと考えれば、ほぼ相似な三角形です。
 
つまり、おそらくポイントとしては、
1.二人の男性のうちの一人が「オンリーワン」である。
2.残りの二人はペアである。
という二つの要素なのでしょう。
オンリーワンの周りを二人が回ることで、ストーリーが動く。
考えようによっては『水戸黄門』の黄門様+助さん格さんと同じ構成ですね。
 
逆に言えば、「オンリーワンとヒロイン」という組み合わせになると、
そこにさらにもう一人が加わって三人のユニットになるというのは、きっと難しいのです。
その場合、バットマン&ロビンにバットガールが絡むように、
「異質な関係が二組重なり合う」という形になるのだと思います。
それは、ティーンエイジャーの男の子にとって、
「男の親友か彼女か」というのがしばしば二項対立的な取捨選択の対象になるようなものです。
(実際にはそういうもんでもないにもかかわらず)
 
さてそれで、『DRAGON QUEST -ダイの大冒険-』の方のメインストーリーは、
当然「勇者ダイ×大魔王バーン」という対決なのですが、
実のところ、それはもう予定調和的に「勇者が勝つに決まっている」わけで、
そのプロセスももちろん楽しむのですが、
むしろ読者は何を読むかといえば、それは「ポップの成長物語」です。
普通のチャラい男の子が、目的意識に目覚めて自己変革し、
コンプレックスに打ち勝って大人になる、という王道ストーリーをきちんと描けたことで、
この作品は少年漫画の名作たりえたのだと言えます。
 
この点でも、『ハリー・ポッター』におけるロンの位置付けはまったく同様です。
「戦線離脱(放棄)」→「コンプレックスの克服」→「戦線復帰」というプロットは、
ポップの歩みと完全に一致しています。
その割りに、ポップよりもロンの方が作中での扱われ方が今ひとつな感じがするのは、
一つにはロンの伸びしろがいまひとつ伝わりにくいこと、
そしてもう一つ、どちらかというとこちらが主因だと思いますが、
オンリーワンたるハリーがそこまで優等生的ではなく、
ハリー自身の成長物語としての意味合いが強いことによるのでしょう。
 
この辺り、作者の個性によるものなのかどうなのかよくわかりませんが、
とりあえずちょっとロンに同情してしまうところはあります。
まあ、ヘタレなのは確かですし、さんざんに言われても仕方ないのかなあとは思いますが(笑)、
そんなわけで多少は大目に見てあげましょうよ…と思う今日この頃です。