「Let me live」は自立の叫び。

先月観たベジャール作のバレエ『バレエ・フォー・ライフ』の3曲目には、
クィーンの「Let me live」という曲が使われています。
メジャーな曲ではないと思うんですが、僕は大好きです。
すっごいパワフルなメロディーなんだけど、別れの歌で、歌詞は暗いというかなんというか…

全引用は著作権上問題があると思うので、とりあえず訳してみます。
(歌詞が知りたい方はコチラをどうぞ)

 僕の心のひとかけらをもう一つ拾ってよ。
 拾って、壊して、バラバラにしてしまって。
 僕は与えるばかりで、君は受け取ってばかり。
 ベイビー、どうか僕に新しいスタートを与えて。

 だから、どうか僕に生きさせて。
 どうか僕に生きさせて、そして新しいスタートを切らせて。

 僕の魂のひとかけらを、もう一つ拾ってよ。
 その形を変えて、揺り動かして。
 君が支配してしまうまで。
 僕は与えるばかりで、君は受け取ってばかり。
 僕が求めているのは、生きていくチャンスだけさ。

 だから、どうか僕に生きさせて。一人にさせて。
 どうか僕に生きさせて、そして新しいスタートを切らせて。
 
 それはとても困難な戦いさ。
 でも、君はいつだって僕を頼りにできる。
 そして、もし君が困っているときには、
 僕がどこにいるのか、君にはわかるよ。

 僕の人生のひとかけらを、もう一つ拾ってよ。
 ねじって、回して、ナイフのように切り取って。
 君は生きているけれど、僕はただ死んでいるだけ。
 ただの友達でいることだってできるだろう?
 偽りを生きるのは、もう止めよう。

 だから、どうか僕に生きさせて。一人にさせて。
 どうか僕に生きさせて、お願い。
 少しだけ、僕に愛をくれないか…。

暗い…というか、別れる時に相手からこんなこと言われたら、
「ふざけんな」と言いたくなるかもしれません(笑)。
だってねえ、そんな一方的搾取のような関係が、搾取する側の事情だけで成り立つわけないですから。
たとえばまあ、惚れた弱味なり、尽くしキャラだったり…。

そのレベルの話ならいいんですけど、世の中にはしばしば、
「ダメ男・ダメ女に入れあげてしまう人」っていますよね。
マンガでいうと、業田良家の『自虐の詩』とか。
あれはつまるところ、
「精神的に自立していない人が、自分よりダメな人といることで、精神的な拠りどころを得る」
という構造なんだと思うわけです。
で、最終的にはたいてい共倒れ。

「あなたなしには生きられない」なんていうのは、
ほんとに相性のいい運命の相手と巡り会えたというのなら、
それはもう一生添い遂げられたらいいですねと祈るばかりですが、
依存の対象としてということなら、考え直された方がいいですよ、と思ってしまいます。

とまあそんなわけで、自分はこんなことを言う側にも言われる側にもならない確信がありますが、
たとえば一念発起して新しいスタートを切ろうとする友人の発言とかだったら、
頑張れよ、ぐらいには言ってもいい気になるかなあ、と(笑)。


依存の対象は、なにも恋人に限らなくて、たとえば家族だったり、会社だったり、共同体だったり…。
家族はともかくとして、会社から首を切られるとか、周囲から疎外されるとか、
いろいろと自分の拠りどころが揺らぐ場面はあると思うんですが、
やっぱ自分の存在理由は、究極的には自分の中に置くべきだと思うんですよね。
誰かに与えられるのではなく。
…きっと、自分が社会的には日陰者的立ち位置にいるから、余計そう思うんですが(苦笑)。
そりゃもちろん、社会的な居場所は自分で作れるように努力はしますけど、
現在居場所がないからって、ヤケで自分を壊そうとも社会を壊そうとも思わないし。

もう一つついでに言うと、「恋人に依存してしまう人」というのは、
おおむね「家庭的に問題を抱えて育ってきた人」が多いような気がします。
(もちろん、家庭的に問題があればすべからくそうなる、などとは言いません)
それは多分、家族の愛を受けて育った場合、
「親離れ」や「反抗期」という形でそこから離陸することが、ある程度の精神的自立へとつながるけれど、
家族の愛を受けずに育った場合、そこの部分の蓄積がないので、
まずは「愛される」ことからはじめないといけないからではないか、と思うのです。
家族の愛を受けても離陸できない場合だってあるのは、言わずもがなですが(笑)。
いやまあ、あくまで素人考えですけどね~。