国体と講。

日本史関係者のブログで「国体」と書くと違うものを連想されそうですが(笑)、
ここでの「国体」はもちろん「国民体育大会」のことです。

国体:参加資格問題 違反35選手、処分せず 山口減点、体協に答申--第三者委毎日新聞
◇外部の視点、改革の一歩に
三者委員会が日体協に示した「提言」の意義は大きい。開催都道府県が天皇杯(総合優勝)を獲得する慣行の是正と選手の参加資格の再考という、まさに国体の根幹部分にかかわる内容だ。国体がスポーツ界の実態とそぐわなくなってきた現実を突きつけている。
64年以降、02年の高知を除いて開催地が天皇杯を獲得しており、提言では「開催地の関係者に有形無形の強い圧力の存在があることは明らかであり、問題が起きることは予想できた」と指摘。また、現行の「居住地」「勤務地」「ふるさと」の成年選手の参加資格について、「合宿や遠征が多く、都道府県に居住や勤務の実態をつくるのが困難なトップアスリートの参加促進という点では不十分。(トップ選手を)招へいしやすい資格拡大も効果的」とした。
日体協は03年にプロジェクトチームが「国体改革2003」をまとめ、開催地の一過性で過剰な選手強化の是正を図った。現在も国体活性化を含めた改革への取り組みを続けているが、泉正文・日体協国体委員長は「手を入れられなかった面もある」と省みる。そうした状況の中で、第三者委員会が「提言をしなければという雰囲気になった」(菅原哲朗議長代行)という。
日体協の中心事業の一つである国体。泉委員長は「開催地の選手が活躍することによって、国体が盛り上がるシステムをつくってきたつもりだった。提言をしっかり受け止めたい」と話す。「外部」からの初の視点で示された提言が、抜本的な国体改革への第一歩になりそうだ。【百留康隆】


この記事を読んでいて、はたと思いついたのですが、
国体の開催地持ち回りシステムというのは、一種の「講」みたいなもんなのか、と。

「講」については、専門外の方には少々説明が必要かもしれません。
たぶん、このブログをお読みの方は半分ぐらいは専門外の方なので説明しておくと、
一言で言えば、前近代で行われていた、お金の融通の方法です。
1.地縁・血縁などで結ばれた関係者が講を組む。
2.講の構成員すべてが掛け金を出し合って一つに集める。
3.くじ引きなどで掛け金を総取りする人を決める。
こういうのを、たとえば毎年行って、一度掛け金が当たった人は次回以降のくじ引きから外れ、
全員が当たったらそれでおしまい、というやり方です。
別に前近代に限らず、地方なんかでは今でもやっている、という話を
このあいだ後輩から聞いたのですが。

何のためにこんなことをするかというと、
前近代には生産力が少なくて貯蓄もないし、ローンみたいな仕組みもない、
けれども時々はまとまった出費が必要なこともある…というときに、
お金を用立てるための一つの手段として用いられた、というわけです。

さてそれで、国体はべつにお金を集めるわけでも相互扶助なわけでもありませんが、
何十年かに一度国体が回ってくると、各市町村に実施競技が決められ、
それにあわせて競技施設の整備などが行われます。
たとえば、私の住んでいる京都府では1988年に国体が行われ、
京田辺市ではハンドボールの試合が行われました。
その結果、今でも町の小中学校ではハンドボールが盛んですし、
新たに建設され会場となった市民体育館は、今でも重要な施設として活用されています。

別に、開催地が必ず優勝する必要があるなどとはかけらも思いませんし、
自治体が身の丈に合わない額の出費をするのも、あとあと大変なだけでしょう。
ですが、じゃあもう国体なんて要らないかというと、そういうものでもないのだろうな、と思います。
(上記の記事は国体不要論ではありませんが、それとは別に不要論はちらほら見かけます)
というより、地方が赤字にあえいでいるからこそ、
地方におけるスポーツ振興というのは、むしろ重要な課題ですし、
国体をどのようにスリム化させ、果たしてきた役割を受け継いでいくのかがきっと大事なのでしょう。