京都のランドマークとその位置(情報求む)。

こないだ某さんのブログを読んでいてふと思い出したのですが。
京都のランドマーク的な役割を果たす建造物について。
あらかじめお断りしておきますが、以下は私のオリジナルではなくて、
特に指定した箇所については、「情報求む!」という部分です。

京都タワーはさておいて、現在京都でシンボル的な建物を一つ挙げなさいと言われれば、
東寺の五重塔はかなり上位にランクインするでしょう。
もともと東寺は、朱雀大路をはさんで左右対称で作られた西寺とワンセットの存在でした。
で、平安京遷都当時は、人々は基本的に羅城門を経て都へ出入りしたはずなので、
南から平安京へと入った人々が最初に目の当たりにしたのは、
東西に並んで聳え立つ二基の五重塔だったわけです。

さて、平安時代も中期以降になり、律令制が崩壊するにつれて、
平安京の枠組みも変容し、右京がさびれ、左京は白河・鳥羽へと拡大していきます。
で、院政期に入り、新たな京都のシンボルとなったのが、法勝寺の八角九重塔。
法勝寺は白河天皇が承暦元(一〇七七)年に建てた御願寺です。
場所は現在の京都市動物園内で、戦後動物園が進駐軍に占有されるまでは基壇が残っていました。
その高さはざっと80mと推定されています。ちなみに現存の東寺五重塔が約50m。

で、この法勝寺八角九重塔は数度の火災の後、南北朝期に焼けて廃絶してしまうのですが、
それと入れ替わりの形で建造されたのが、相国寺の七重塔です。建てたのは足利義満
こいつがまたバカデカイ。伝えられている高さは三六〇尺(約110m!)。
京都の最高権力者の変遷につれて、ランドマークの建造者も移り変わっていったというわけ。

(ここから)
このように、京都のランドマークは東寺の五重塔→法勝寺の八角九重塔→相国寺の七重塔という
変遷をたどったわけですが、それとともに移り変わったのはその立地。
これは無秩序に動いたわけではなくて、院政期に入り古代的な官道のあり方が崩れ、
東国・北国からの人の流れが逢坂越から三条へと入るルートに変化したことにともない、
院政期のランドマークは白河に建てられたわけです。
で、室町期に入って西国から丹波を越えてくるルートの重要性が上がると、
従来の京域よりさらに北の相国寺の地にランドマークが建てられた、と。
つまり、京都に入ってくる人間に権力者の権威を見せ付ける装置としての役割を、
これらの塔は果たしていた側面があるわけです。
(ここまで)

と、ここまで「どっかで聞いたような話」を書き連ねてきましたが。
実は、カッコでくくった中の話を、以前何かで読んだのですが、どうしても出典が思い出せません。
歴史資料館で働いていた時に、会議でこの話をすると、
みなさん「今まで聞いたことがない話」だという反応をされたので、
早々一般的に言われている話ではないと思うのですが。うーむ。
どなたか、これに類する話を読んだことがある方で、出典をご記憶の方はぜひご一報下さいませ。

以下おまけですが、東寺の五重塔がランドマーク的役割を回復した理由は、
(まあ、あの位置にあるんだから、江戸初期の再建以降もずっとランドマークではあったでしょうけど)
やはり鉄道敷設時に京都駅があの場所に置かれたことが大きかったんでしょうね。
仮に鉄道が逢坂越の旧東海道ルートに敷かれて、遠方から京都に来る玄関口が三条に置かれていたら、
江戸時代の延長線上に、三条大橋が京都のランドマークとしてより強く意識されていたでしょうから。
もっとも、明治初期にあの逢坂越の急勾配を上がれる汽車なんてのはなかったのかも。