ゲド戦記感想。

(注意:以下の文章は、映画『ゲド戦記』のネタバレを含むだけでなく、ひたすら酷評しております
 ネタバレが嫌な方も、映画を見て感動した人も、精神衛生上読まないことをおススメします。)

さてさて、見てまいりました『ゲド戦記』。
いやー、ヒドイもん見ちゃったよーという気分です(苦笑)。
なんでしょうね、「たちの悪いツギハギ」?
(「パッチワーク」と評するのもはばかられる)
原作ファンとしても、宮崎作品・ジブリファンとしても、映画一般のファンとしても、トホホな気分。

まず原作ファンとしての視点から。
最初に、とにかく「エピソードを、文脈を無視したり、登場人物を入れ替えたりして
適当に繋ぎ合わせるのは勘弁してくれ」と言いたい。
ほぼ全編通して、「このエピソードはあの巻のあそこのだな」とすぐわかる場面でいっぱいで、
それはそれなりに原作に対する尊敬の現われなんだろうなあと思うんです。
でもね、エピソードというのは、登場人物のキャラクターとか、前後のシチュエーションとかを
抜きにしては成り立たないもんなんですよ。

例えば、アレンが奴隷商人に捕まるエピソード。
原作では、アレンのキャラクター設定や、アレンとハイタカの関係を語る上で欠かせない場面なわけですが、
それは、アレンがさらわれることになった原因や、
アレンを救出してからのアレンとハイタカの会話によって成り立っているわけです。
ですが、映画のように、「アレンが海を見て眠り込んでいる間に、人買いに見つかってボコられる」というんでは、
単にアレンがマヌケなだけです(いや、そういうキャラ設定にされてたんだからしょーがないんだけども 苦笑)。
そのあと特にアレンとハイタカの間で会話があるわけでもなし。
一応クモがハイタカがやってきていることを知るきっかけになる事件という位置付けはありますが、
そのためにわざわざこのエピソードを使わなくてもいいんじゃない?という感じ。

そして、多分こういうやり方で原作中のエピソードを盛り込んだ結果だと思うんですが、
原作ファンとしては、原作との相違点がむしろ目に付いてしまう、という結果になりました。
例えば、アレンとテルーが互いの真の名を明かし合う場面。
これ、明らかに1巻のハイタカカラスノエンドウのエピソードが下敷きなんですけど、
映画ではテルーがアレンを真の名で呼んだあとに、自分の真の名をアレンに明かします。
違うんだよ~。あれは原作では、カラスノエンドウがまず自ら真の名をハイタカに告げるのがミソなんだよ~。

やっぱり、こういう原作ががっちり確立している作品を見るにつけ、映画化するときには、
思いっきり原作に忠実に映像化するか、完全に原作を離れてしまうかのどちらかしかないんだと思うんですよ。
(例えば極端な話、アースシーという世界設定だけ受け入れて、キャラは完全にオリジナルにするとか)
今回の原作の受容の仕方は、「あーあ、やっちゃったな~」という感じでした。

で、宮崎作品・ジブリファンとしての視点から。
えー、あっちこっちで過去の作品がフラッシュバックする作品でした。
これだったら、いっそ最初から「過去の作品に対するオマージュの集大成です!」ぐらいのことを
ぶち上げちゃえばいいのに、と思いました。
そこまで確信的にやってくれてたら、こっちとしても許容できたのになあ、と。
だってね、そもそも過去の作品にゲド戦記が大きな影響を及ぼしてるのはすでに語られているわけで、
ゲド戦記として改めて見た時に、「ああ、なるほどね」ということであれば、
別に構わないと思うし、それなりに面白かろうと思うんですよ。

まあもっとも、だからといって、アレン-テルーが、まんまシータ-パズーやなくてもええやんか、
とは思ってしまうわけなのですが(苦笑)。
一緒に見た友人曰く、アレンとテルーが互いの真の名を明かし合う場面で、
「『バルス』って叫んで、二人の手が輝いたらどーしようかと思った。
 で、そのあと、クモが『目が、目が~』って(笑)。」と。まったくだ。
(とはいえ、映画版の、「突如二人でお陽さん背負った心象風景に切り替わる」ってのもどーかと思ったけど)

そしてラスト、アレン・テルーとクモとのバトルの場面は、なぜか基本「カリオストロの城」(笑)。
で、「ラピュタ」・「千と千尋」等のテイストで味付け。
うーん、なんだかなあ。懐かしかったですけどね(笑)。

あとは、過去の作品に見られるような「遊び」の要素が欠如してましたね。
本筋と全く関係ない笑いとか(なんかもう「見てるだけで画的にオカシイ」っていうやつです)、
隅っこの方でちょちょっと細かく入れてる小ネタとか。
いや、多分出そうとしてるんだろうなというのは見て取れるんですよ、テナーのセリフとかでね。
ただ、いかんせん原作のキャラ設定から脱しきれていなかったので、どうにもいじりようがなかった、と。
だからオリジナルキャラにしときゃよかったのに。

それと、映像そのものに関して。
「背景が書割みたいになっちゃってるらしいよ」と事前に聞いていたのですが、全くその通りでした。
これは多分、ある程度意図的に狙ってやったんだろうなあという感想だったのですが、
結果としては完全に逆効果になってましたね。
なんというか、「活きた前景」と「死んだ背景」というコントラストになってしまっていて。
紙芝居とか人形劇みたいな画に感じられました。

でもって、最後に映画一般のファンとしての視点から。
まずオープニングの画面が、「黒字に白文字で『エアの創造』」っていう時点で、
正直「えーっ」って思いました。
いやね、大事な一節だとは思いますよ。で、確かに1巻の冒頭に提示もされてるし。
でもさあ、映画の冒頭のつかみがいきなりそれって、あんまりにも芸がなさ過ぎません?
極端な話、それを映像で伝えるからこそ、映画は映画なんでしょう?

で、その時点で大体予想がついたんですが、随所に説明的セリフが続々とご登場。
物語の最初に、国王の御前会議のあと、議場の外のレリーフを見ながら、
老臣が人間と龍の関係について語るのですが、いきなりこれが説明的でやたら長い。
もうね、その時点でトホホ感全開ですよ(苦笑)。
(ついでに言うと、人間と龍の住み分けという設定は、本編に何も活きてませんでした。
 だってなあ、物語終盤まで龍なんてちっとも出てこないし、
 テルーが龍になるのは、それ自体の理由も設定との関わりもさっぱりわからないし。)
あと、原作をそのまま引用したセリフは全体に冗長に聞こえましたね。
そりゃそうだよ、だからこそ脚本というものが大事になってくるというのに。
それと、これは以前から感じていたことですが、声優さんの存在意義は再確認しましたね。
洋画の吹き替えとかもそうですけど、安易に役者さん等を起用するのはやめましょうよ~、といいたい。

そして、キャラクター造型。
「生への不安と恐怖」という抽象的な理由で父親を刺しちゃうという主人公なんて前代未聞でしょ(苦笑)。
最初に父親を刺しちゃうアレンを見て、これは何かきっとちゃんと設定上意味があるんだよね、
と思って注目してたんですが、はっきり言ってどうでも良かったみたいです。お父さんお気の毒…。
ってゆーか、アレンのとことんまでのヘタレっぷりは一体どういうことなんでしょう?
何かアレンに恨みでもおありで?と聞きたくなってしまいました。

総じて登場人物の行動原理とか目的がよくわかんないですしね。
ハイタカは途中で旅をほっぽりだして、テナーの畑仕事の手伝いを始めちゃうし。
畑仕事しながら、アレンがハイタカに「魔法使いなのにどうして…」と問い、
ハイタカは「どうして魔法を使わないのかと言うのかね」という感じで問いを引き取るのですが、
どっちかというと、「どうしてこんなところで旅の目的を忘れて畑仕事を?」と聞きたい(苦笑)。

それから、原作読んでない人はこれじゃわかんないでしょ?といいたくなる説明不足が随所に。
唐突にテナーが「アチュアンの墓所で」とか言い出したりするわけなんですが、
原作読んでない人がいきなりアチュアンなんて言われましても、ねえ。
不二子ちゃんがクラリスにルパンとの関係を聞かれているのとはわけが違うんですから(笑)。
原作ファンとしては、これって勝手に脳内補完しろっていうことか?と思って見てましたが。

というわけで、結論としては、土台無理な話だろうと思って見に行って、
やっぱり無理だった、ということは確認できました(苦笑)。うーむ。
友人曰く、「見る前からヤヴァい香りのする映画だったけど、見たら実際ヤヴァかった」と(苦笑)。
そもそも、原作読み直して、「これは映画化には向かん作品やろ」って思っちゃいましたしね。

こうやって文章にしちゃうと、なんか真面目に批判してるような感じになってしまいましたが、
まあなんだかんだで、見終わってから友人とひたすらツッコミを入れまくって楽しんでいたので、
個人的にそれなりに楽しめて満足ではありました(笑)。
ってゆうか、こういう楽しみ方ができない人にはツラい映画じゃないのかなあ、これ。