劇団四季『ジーザス・クライスト・スーパースター』。


ジ-ザス・クライスト:柳瀬大輔
イスカリオテのユダ:金森勝
マグダラのマリア:西珠美
カヤパ:飯田洋輔
アンナス:阿川建一郎
シモン:本城裕二
ペテロ:賀山祐介
ピラト:村俊英
ヘロデ王:大塚俊

作詞:ティム・ライス
作曲:アンドリュー・ロイド=ウェバー
演出:浅利慶太
エルサレムバージョン

じーざすくら~いすと♪すーぱすた~♪

あたまんなかがずーっとこんな感じです(笑)。感染力強い歌だもんな~。

というわけで、見てきましたJCS。
もう7年ほど前に人からビデオ(映画版)を借りて見て以来、ぜひ一度生で観てみたかった演目でした。
念願叶ってうれしいです。

ジーザスとユダって、西郷と大久保、毛沢東周恩来なんだなーと思って見てたら、
パンフでまさにその通り浅利さんが書いてて納得。
なんつーか、キリストには最初から西南戦争の西郷さん的な諦めが入ってるんですよね。
今となっては仕方がない、みたいな(となると、シモン=桐野利秋か…)。
実際には西郷さんにユダ的な人物はいなかったし、
(西郷さんが数名の供だけ連れて上京するべきだ、と真っ当な意見を言った人はいた)、
晩年の毛沢東に諦めは感じないので(有るのは豊臣秀吉に通じる衰えでしょう)、
取り合わせとしては「西郷さんと周恩来」が一番的確だと思いますが。

(この作品での)ユダは、徹底して理の人、覚めた合理主義者。
「パンで人は救える」と考える。
だからこそ、香油でキリストを癒すマグダラのマリアに、
「なんでそんな高価な香油を使うのか、それで貧しい人々を救うのが先じゃないのか。」
と言ってしまう。
でも、覚めた人間なので、結局人は理ではなくカリスマによって動くのだ、ということ、
そして自分にはないそのカリスマ性がキリストにはある、ということは分かる。
で、人々の救済のためにはこの人を担ぐのが良いのだ、と思っている。
この人、多分究極的には師の説く「魂の救済」という方向性がわかってないし、
少なくとも共感できてないんじゃないかなー。
(「人はパンのみにて生くるにあらず」と言われたら、
 「でも、人はパンでも生きるでしょう」と言いそう…と私には思われます)

が。
そのカリスマキリストに、一番魅了されてしまっているのはユダなのです。
表立っては「オレはあいつのビジネスパートナーだ!」としか言わないし、
決して「あなたを愛しています」なんて口に出しては言わないけれど(ツンデレ?)。
んで、キリストによる「魂の救済=愛」の対象である民衆に猛烈に嫉妬する。
言葉としては「アンタこのままじゃまずいよ、ヤバイよ、馬鹿なことはここらでやめときな」
としか言わないし、実際覚めてるからその辺の現実をユダはよく理解してるんですが、
結局のところ、「ほら、アンタのことを一番良く理解してるのはオレじゃん!
アンタのことなんかこれっぽっちも理解してないあんなやつらのことは捨ててオレを取りなよ!」
と本音では言いたいわけです、きっと。
言葉にできない情愛とか嫉妬とかって、逆に情念籠もってる感じでコワい…。

ユダの悲劇って、きっとそういう性質のものなんじゃないんですかねえ。
だって、愛なんて究極の不条理、究極の不合理じゃん。
個人的には、そういうユダのダメっぽいところに感情移入して、
ちょっと泣けてしまいそうだったのですが。

そういうユダの「キリストの愛の対象となっているわからずやの庶民」(←ユダの主観ね)を
人格化させたら「マグダラのマリア」になって、ユダの嫉妬がより生々しく感じられるのかなー、と。
と考えてて、この構図ってどっかで見たことあるような気が…と思ったら。

キリスト=蘇我毛人(蝦夷
ユダ=厩戸王子(聖徳太子
マグダラのマリア=布都姫

おお、そうか!『日出る処の天子』は日本版『ジーザス・クライスト・スーパースター』だったのか~!(笑)


あとは、なんちゅーか、「若いよねー」というのが全体的な印象。
なんたってユダの青春恋愛ドラマだから(笑 しかもボーイズ・ラブものである)。
それはさておくとしても、すごく表現がストレートで粗削りなんですよね。いい意味で。
オペラ座の怪人』を見てからこちらを見たので、なおさらそう思うのかもしれません。
あと、舞台装置が極めてシンプル(なんせ舞台設営の時間が不要だから幕間がない)。
結構低予算でいける作品なんじゃないんですかね。

楽しみにしていたヘロデ王との対面シーンはもう最高でした(笑)。
あれ、確か映画版だとほんとにプールサイドで歌うんですよね。
(歌詞に「プールの上を歩いて見せろ」というのが入っている)
そしてやっぱり、ラス前の「スーパースター」はもう理屈抜きで素晴らしい!