関西人的ノスタルジー。

ちょっと唐突な話題ですが、日本アカデミー賞の授賞式をチラッと見て思い出したので。

世間では高く評価されている『三丁目の夕日』、私は西岸良平の原作をちょっと読んだだけで、
映画とアニメは見てない(忘れてる人が多いかもしれませんが、昔アニメ化もされたんですよ)んですけど、
正直なところ、個人的にはあまりピンと来ませんでした。
マンガとしての評価が高い理由はよくわかるんですけど。
なんていうか、「貧乏だけど人情はあった」時代へのノスタルジーですよね。
郷愁を刺激する点において、確かにすごい作品だなあと思います。

が、だ。
ピンと来ないのは、きっとその中身が「都会のノスタルジー」だからなんですよ。
えーと、たとえば茶川さんは田舎から東京に出てきた大卒の文学青年(のその後)ですよね。
で、そこに描かれている共同体は、全て地の人というよりは、
わりと「地方から東京に出てきて暮らしてる」風もある。
なんとなくその辺りが、純関西、しかも京都でも阪神間でもなく
もっと土臭いところの生まれ育ちの私には、あんまし郷愁をそそられない理由なんだろうなあ、と。

むしろやっぱり、純関西人にとって、「貧乏だけど人情はあった」時代への郷愁をそそるのは
はるき悦巳じゃりン子チエ』なんじゃなかろうか、と思います。
単純に登場人物がコテコテ関西弁ていうこともありますけど、
例えば、「いらんことをしてるけど、基本は気のいいオッチャン」というキャラは、
見渡せばご近所さんなり親戚なりに一人二人はいる(…過少申告?)気がするわけです。
人間関係の基盤も「地縁血縁」。

そしてなにより、チエちゃんのキャラがいい。
親父がバクチ好き・ケンカ好きでろくに働かないから、小学生なのにお店を切り盛り、という状況を、
「ウチは日本一不幸な少女や」なーんてネタにしつつ、なんだかんだで元気にやっていく。
そして、周囲の大人も、適当に気にかけながら、温かく見守っている。
キャラでいえば、『三丁目~』の茶川さんと『じゃり~』の花井先生を比較すれば
両作の作風の違いが如実にわかりますね(笑)。

とはいえ、非関西圏出身の後輩と話していたときに、
「『じゃりン子チエ』の世界は受け付けませんでした」という反応が多数だったので、
これもやはり、かなりの部分で地域性に規定される感想なのかもしれません。

ついでに言うと、『じゃりン子チエ』についての特集記事で以前読んだのですが、
じゃりン子チエ』の原作・アニメ・映画がヒットした1970年代後半~80年代前半において、
こうした世界はすでに「失われて今はもうない」だったそうです。
まあ確かにそうでしょうね。
すでに高度成長期も終わり、安定成長期からバブル期への曲がり角の時代ですから。
ただ、関西ってこういう『じゃりン子チエ』的雰囲気をまだまだ色濃く残している気もするのですが…。


おまけのおまけ、ですが。
同様に、昨年映画化され話題となった作品に業田良家自虐の詩』があります。
この作品、筋だけを取り出して言ってしまえば、
父は働かず酒好き・バクチ好き・借金まみれの暴力親父で、子供の頃に母が家を出てしまい、
イジメにあった女性が、大人になってヤクザ上がりの酒好き・バクチ好き・暴力男のヒモと暮らす。
貧乏でも暴力を振るわれても、あの人の愛があるから幸せ!
という、そういう作品です。
これだけ書いたら、たいがい救いのないストーリーで、
この作品の名作たる所以は、これをあくまで主人公の「主観的な幸せ」という視点で、
4コママンガという技法でストーリー性を持たせて描いたことにあります。

というわけで、これを映画化すると聞いた時、「アホか!」と思いました。
まして、これを「本当の純愛の物語」みたいに言われた日には…。
自虐の詩』の幸江さんと『じゃりン子チエ』のチエちゃんとは似たような境遇なんですが、
つくづくチエちゃんの明るさと精神的なタフさはいいなあ、と。
もちろん、誰もがチエちゃんみたいになれるわけではありませんが、
どうせ称揚するならチエちゃんのような明るさにしたいなあ、と思うわけです。