手塚治虫『新選組』と仇討ち。

新選組』は、数ある手塚作品の中の、傑作の一つです。
描かれているテーマはいろいろあるけれど、メインテーマとして、
仇討ちの虚しさ
が、あげられるでしょう。

主人公の深草丘十郎は、父の敵を討つために新選組に入隊しますが、
新選組での任務として裏切り者を切り殺したため、その娘八重から仇と狙われることになり、
さらに、父の仇を討ったことで、仇の属していた土佐藩からも狙われます。
そして、仇討ちの虚しさを知った丘十郎は、坂本龍馬の導きで広い世界へと視野を向け、
自分を殺そうとした相手であるにもかかわらず、仇討ちに失敗した八重を助けるのでした。


明治新政府による近代化の一環として、「仇討ち」は明治6年に禁止されました。
「私刑の禁止」は近代法治国家の要諦だからですが、結果的に現代日本社会においては、
国家のみが死刑によって人の命を合法的に奪う権利を保持しています。
(一応、緊急避難や正当防衛の法理はあるけれど、それを認定するのも結局裁判所=国家権力なわけで)

近年しばしば「遺族感情への配慮」として、死刑判決を要求する主張がなされます。
判例としては「二人以上の殺害に対しては死刑判決が下せる」ということになっていますが、
被害者感情に配慮すること」を基準とすれば、殺害人数と関わりなく、
殺人犯に対しては死刑が求刑され、死刑判決を求める主張が起こるでしょう。
しかし、考えてみると、それは結局のところ、
「個人の仇討ちを国に代行させる」だけでしかないのではないかと思うのです。
そして、それによってむしろ、
「人の命を奪う」ことの罪悪感が軽減されてしまう面があるのではないでしょうか。

たとえ相手が仇であっても、目の前にいる人間を殺せる人間が、そう多いとは思えません。
少なくとも、きっとそこには、幾分かの恐怖やためらいが存在するでしょう。
国家の名において死刑を執行することで、ある部分で私たちは非人間的になるのだ、とも言えます。
また、法理の面においても、人が人の命を奪うことは許されないのに、
国家だけは人の命を奪ってよいというのは、不合理ではないでしょうか。

そして、もう一つ重要なのは、
殺人犯を死刑にすることで、果たして「遺族感情」は救われるのだろうか?
という問題です。
おそらく答えは「NO」でしょう。
なぜなら、犯人が死刑にされたところで、被害者は帰ってこないからです。
手塚治虫が『新選組』で描き出した「仇討ちの虚しさ」は、それを示していると言えます。

もっと言えば、死刑が問題となるのは、「殺人罪」の場合だけです。
では、故意ではなく過失の場合は?
事故の場合は?
薬害の場合は?
公害の場合は?

いずれの場合も、「大切な存在が死んでしまった」という点で、
被害者の家族や友人などの身近な存在にとっては、違いはありません。
ですが、いずれの場合も、被告を死刑とするわけにはいかないでしょう。

おそらく、他罰によって被害者感情を救済することは、不可能なのです。
それを端的に示す究極的な事例が、「自殺」です。
自殺において、誰かを罰することは根本的に不可能です。
だからといって、自殺者の周囲の人々の悲しみが、癒されなくていいわけがない。

要するに、殺人事件における「遺族感情の救済」は、それのみを個別に考えるのではなくて、
事故・自殺など、さまざまな原因による死を含め、
「傷つけられた心の救済の問題」として、総合的に考えなくてはならないはずだ、ということです。
それはもちろん、病気による死とも関係するし、
人間以外の死にだって当てはまるし(ペットロスとか)、
心身の傷害被害者に対して、あるいは災害被害者に対して、など、さまざまな心の問題とつながるでしょう。

もちろんその処方箋はケースバイケースでしょうし、私に成案があるわけでもありません。
ですが、基本的には、
「周囲の人間が、傷ついた人の心に寄り添い、共感すること」
しかないのだと思います。
こう書くと簡単だけれど、それは実に難しく、そして時にめんどくさく、
少なくとも、自分の側にある程度余裕がないと不可能なことです。
しかし、それこそが、家族なり友人なりの持つ意味というものではないでしょうか?
もちろん、セラピストetc.といった共感のプロの存在も、欠くことはできないと思います。


そしてもう一つ、「処罰とは何のために存在するのか」という点について。
社会の側が犯人に対し、処罰を通じて「罪の自覚」を求めるのならば、
死刑を行うよりも、終身刑を科して「罪の自覚」を促す方が、理にかなっているのではないでしょうかか。
極端にいえば、「死刑になりたくて」罪を犯す人間だっているわけです(それも、近年少なからず)。
そんな人間を死刑にしたところで、処罰として意味があるとは思えません。
むしろ、生きていく中で自らの罪の大きさを自覚させてこそ、意味があるのではないでしょうか。
そして、そこからもし本心からの謝罪が生まれれば、
被害者感情の癒しのきっかけともなりえるのではないか、と思うのですが。
人は「赦す」ことで救われることだってあるのだから。

間違いなく、殺人は大きな過ちです。
しかし、殺人の罪に死刑をもって臨むことは、以上の点で
さらなる過ちを犯すことになるのではないでしょうか。
一つの過ちを、もう一つの過ちによって償うことはできません。
私が死刑廃止を主張する所以です。