受験国語は知識の宝庫。

体調はとりあえず9割方回復して、今日は塾での授業。
まる3日以上「蟄居謹慎」状態だったので、教室で声を出すのが大変でした。
ま、何が一番大変だったって、3日ぶりにひげをそるのがね。
実は私、ひげの伸びがものすご~く早いので(髪もですが)、
3日もほっとくと電気カミソリではなかなかそれないんですよね(苦笑)。

で、今日は小学生の受験科で国語を教えたのですが。
4年ほど前から国語も本格的に教えるようになって(それまでは英語と社会が基本)
わかってきたのですが、国語の受験用教材というのは実に面白い!特に説明文。
個人的に、説明文の問題はものを読む&書くためのメソッドを身につける最適の方法だと思っていますが、
その話は別の機会にするとして、今日のテーマは「情報源としての受験国語」の話です。

そもそも、「国語の受験用教材」(参考書・問題集・模擬試験etc.)が
どういう文章を素材としているのか、についてですが、
特に小中学生向けの教材の場合、多くは新書・ジュニア新書レベルの概説書の類が使われています。
とはつまり、「専門外の人向けに、枝葉を刈り取った大まかな内容を、わかりやすく説明すること」
を目的とした文章である、ということです。
しかも、1問分の文章の長さはたいてい見開き1ページという程度でおさめる必要があるので、
段落数にしてだいたい7~12個ぐらいで、1~2個のトピックがひとまとまりになっていて、
文章の構造が判りやすく読みやすい箇所を、そこから抜き出してくることになります。
そして、そういう部分は、えてして著作の中の導入か結論であることが多い。
つまり、その本の一番重要なエッセンスを抜き出してくるようなものなわけで、
それが面白くないわけがありません(というか、それで面白くない本は、きっと全部読んでも面白くない 笑)。

また、文章のジャンルも、文理両方にまたがっていることはもちろん、
たとえば、文系であれば歴史学・地理学・社会学・心理学・人類学・民俗学…、
理系であれば化学・天文学・生物学・地学・気象学・工学…などなど、
とにかくいろいろな領域の文章が、バラエティ豊かに揃っています。
その理由はおそらく、「受験本番でまったく知らない分野の文章が出題されても対応できるように」
という目的によっているのですが、結果的に自分の興味関心がない分野の文章を読む機会ができるわけです。
この「興味関心がない分野の文章を読む」というのがすごく大事で、
それがきっかけに新しい物事にきっかけを持つようになったりすることもあるわけです。
これは物語の場合もそうで、教材として読んだことがきっかけで新書や本を通しで読んでみた、
ということはけっこうあります。僕の場合、最近だと大平健『やさしさの精神病理』とか。
(ゆえに、国語教材にとって、出典というのは重要情報であると思います。)
それはまあ大人としての読み方かもしれませんが、子供の頃に教科書や試験問題で読んだ文章が、
細かいことは忘れても断片的な知識として残っていることってあると思うんですよね。

つまり、国語の受験教材に取り組むということは、さまざまな本の「パラ見」の集積作業でもあり、
ちょっと大げさに言えば、それは国語教育の枠を超えて、
いろいろな知識への導入の役割を果たす可能性がある、ということです。
もちろん、知識というのは単に「事実」のみを意味するのではなく、
さまざまな書き手の思想も含んでいることはいうまでもありません。
国語教材はさまざまな思考パターンのある種の「カタログ」でもあります。

それを十二分に活かせるかどうかというのは、当然ですが、
受け手と発信者との双方の能力に負うところが大きいです。
なかなかにまあ難しいところではありますが、「子供心に印象に残る」こともあれば
「後になって『そういえば…』と思う」こともあるので、
努力するのはするとして、あとは「なすにまかせよ」的な発想でもいいのかなあとも思ったり。
とりあえず、まずは教える当人が面白がることかなあ、と。
あと、「良く出来た教材」というもののありがたみを強く感じる今日この頃です。
国語に限ったことではないと思いますが、良い教材の作成者というものは偉大だ(笑)。