大善寺。
ほったらかしにしていた山梨レポの続きです。
JR中央本線の「勝沼ぶどう郷」駅で降りて、目的地の大善寺に向います。
駅名の通り、周辺は一面の葡萄畑です。
このあたりが、山梨の葡萄やワインの生産の中心地なんですね。
JR中央本線の「勝沼ぶどう郷」駅で降りて、目的地の大善寺に向います。
駅名の通り、周辺は一面の葡萄畑です。
このあたりが、山梨の葡萄やワインの生産の中心地なんですね。
上の写真の上部に山並みが連なっていますが、
左端の部分を拡大するとこうなっています。
鳥居形です。
この写真を撮っている場所は「柏尾山」という山の中腹なのですが、
実はこの上にも鳥居形があって、毎年10月の第一土曜に「鳥居焼まつり」というのがあるそうです。
http://katsunuma.ne.jp/~daizenji/gyoji.html
この二つの鳥居形が、関係しているんだかどうなんだか、ネット上ではよくわかりませんが…。
左端の部分を拡大するとこうなっています。
鳥居形です。
この写真を撮っている場所は「柏尾山」という山の中腹なのですが、
実はこの上にも鳥居形があって、毎年10月の第一土曜に「鳥居焼まつり」というのがあるそうです。
http://katsunuma.ne.jp/~daizenji/gyoji.html
この二つの鳥居形が、関係しているんだかどうなんだか、ネット上ではよくわかりませんが…。
さて、そんな葡萄畑を歩くことおよそ40分、お目当ての大善寺に到着です。
大善寺は真言宗の寺院です。
寺伝によると、その創建は、718年(養老2)に行基が甲斐国を訪れ、
日川の渓谷の大石の上で修行したところ、満願の日に右手に葡萄を持った薬師如来が夢に現れ、
その姿と同じ薬師如来像を刻んで安置したのがはじまり、とされています。
このエピソードは甲州葡萄の栽培の始まりともされています。
(…というのを、むかし川原泉の『美貌の果実』で読んだなあ。
まさかそのお寺に行くことがあろうとは、思いもしませんでしたが。)
大善寺は真言宗の寺院です。
寺伝によると、その創建は、718年(養老2)に行基が甲斐国を訪れ、
日川の渓谷の大石の上で修行したところ、満願の日に右手に葡萄を持った薬師如来が夢に現れ、
その姿と同じ薬師如来像を刻んで安置したのがはじまり、とされています。
このエピソードは甲州葡萄の栽培の始まりともされています。
(…というのを、むかし川原泉の『美貌の果実』で読んだなあ。
まさかそのお寺に行くことがあろうとは、思いもしませんでしたが。)
で、お目当てはこちら。
大善寺本堂は、堂内の柱に「弘安九参月十六日」の刻銘があることから、
弘安9年=1286年に建てられたものと考えられ、国宝に指定されています。
本尊は薬師如来なので、薬師堂とも呼ばれるのですが、
薬師如来像は通常は手の平を正面に向ける印形なのに、ここの薬師如来像は右手を膝前に垂らしていて、
もとは右手に葡萄を持っていたという伝承があるそうです。
背面からのショットはこちら。
薬師堂つながりってことでもないんでしょうけど、
去年行った高知の豊楽寺薬師堂に雰囲気が似てる気がしたなあ。
http://blogs.yahoo.co.jp/historian126/59420843.html
http://blogs.yahoo.co.jp/historian126/59421027.html
大善寺本堂は、堂内の柱に「弘安九参月十六日」の刻銘があることから、
弘安9年=1286年に建てられたものと考えられ、国宝に指定されています。
本尊は薬師如来なので、薬師堂とも呼ばれるのですが、
薬師如来像は通常は手の平を正面に向ける印形なのに、ここの薬師如来像は右手を膝前に垂らしていて、
もとは右手に葡萄を持っていたという伝承があるそうです。
背面からのショットはこちら。
薬師堂つながりってことでもないんでしょうけど、
去年行った高知の豊楽寺薬師堂に雰囲気が似てる気がしたなあ。
http://blogs.yahoo.co.jp/historian126/59420843.html
http://blogs.yahoo.co.jp/historian126/59421027.html
ちなみに、このお寺の目の前が旧甲州街道で、
甲府盆地から山地に差し掛かるまさに境界上に立地しています。
そんな交通の要衝なので、1582年(天正10)の武田氏滅亡の際には、
武田勝頼がこのルートをたどって新府城(甲府)から岩殿城(大月…って、まさに山梨レポの最初の記事)
http://blogs.yahoo.co.jp/historian126/59885478.html
へと向うのですが、途中で岩殿城主小山田信茂の裏切りにあい、付近の天目山で自害します。
そんなわけで、今回は見ませんでしたが、
その一部始終を目撃した理慶尼が記した『理慶尼記』(武田滅亡記)が所蔵されているそうです。
甲府盆地から山地に差し掛かるまさに境界上に立地しています。
そんな交通の要衝なので、1582年(天正10)の武田氏滅亡の際には、
武田勝頼がこのルートをたどって新府城(甲府)から岩殿城(大月…って、まさに山梨レポの最初の記事)
http://blogs.yahoo.co.jp/historian126/59885478.html
へと向うのですが、途中で岩殿城主小山田信茂の裏切りにあい、付近の天目山で自害します。
そんなわけで、今回は見ませんでしたが、
その一部始終を目撃した理慶尼が記した『理慶尼記』(武田滅亡記)が所蔵されているそうです。