「お客さん」。

最初に言っておきますが、別に何か成案のある話ではないです。
先日の母校の同窓会的学会は、終わってから懇親会があったんですが、
そこでのスピーチに、こんな内容のものがありまして。
 
曰く、「自分は最近中国の大学に自分の蔵書を寄贈したのだけれど、
先年現職のまま亡くなられた先生の蔵書も寄贈されていて、非常に立派なものであった。
海外における日本史研究というものは非常に大事だけれども、
なかなかそういう基盤がないので、今後はぜひそういうことに取り組んでほしい。」と。
 
もちろん「イイ話」なのですが、これを聞いた時に連想で思い浮かんだのは、
日本考古学協会の蔵書の寄贈先」に関する話題でした。
もちろん他所から見ているだけの人間なのですが、当事者の方のネット上での発言を読んでいると、
やっぱり、大きくて水平な構造の組織で意見を集約して意思決定するのは大変なんだなあ、と思います。
それは何も学会に限らず。
 
大体において、水平な構造(要するに、上下関係が存在しない)の組織の出来始めのころというのは、
基本的に構成員=コアメンバーで、均質な分だけまとまりがとれていて、意思決定もスムーズなわけです。
(というか、初発の段階で意思決定がスムーズに進まない組織というのは、たいてい存続しません 笑)
ところが、組織が大きくなればなるほど、後から入ってきた人は、いろんな意味で「お客さん」化します。
言い換えれば、当事者意識がなくなります。
ところが、コアの部分というのはある程度以上は大きくならないし大きくも出来ない、
むしろ、委員会なり何なりの、人数を限った運営部局を明確に置かないと、日常的な運営が成り立たない。
そうすると、後から入ってきた人は、ますます運営の人に任せきりになる、と。
均質だった構成員は、やがて同心円的になり、次第に極端なグラデーションになっていきます。
 
そういう状況で、「集団全体の合意形成」を図ろうとしても、なかなか難しいですよね。
わかりやすい例を出せば、たとえば、学会の大会の参加者は多くても、
大会で開かれる「総会」の参加状況は寂しい限り…という状況はざらなわけで。
 
自治会やらPTAやらの役員が回り持ちなのは、それ相応の意味があるし、
ある程度の地域性があるからこそそれがやっていけるんだろうなあ、とはしみじみ思います。
組織が大きくなってくると、なかなかそうもいきませんもんねー。
 
まあだからといって、どうにかしようがあるかというと、やっぱり難しい問題なのでしょうが。
個人レベルの話で言えば、とりあえず総会とかにはきちんと出席しようかなあ、ぐらいの話です、今のところ。