能動的な情報・受動的な情報。

気が付けば7月のアナログ放送停止まであと半年ですが、それとからめた文脈で、
「テレビは弱者のメディアだから、デジタル対応の為に国は援助すべきだ」
という言説をしばしば見かけます。
ここでの「弱者のメディア」とは、テレビはインターネット等と違い、
アンテナにつなぐだけで受信でき安価である、という謂です。
確かに、テレビもNHKの受信料はかかりますが、
それでもインターネット接続料や通信費と比較すれば、安価ではあります。
ほんとにアナログの最低限の機能で良ければ、本体価格もずっと安いですし。

「つなぐだけで受信できる」というのは確かにテレビの特長で、
インターネットの場合、単につなぐだけではダメで、ソフトもいる、
場合によってはモデムもいる(いった)、プロバイダとも契約しなくちゃいけない…などなど、
やらなくてはいけないことが多数あります。
それは接続してからもそうで、テレビは電源を入れればすぐ見られますが、
インターネットは、PCを立ち上げ、それからソフトを起動するので、
たいていは分単位の時間が必要になります。

さて、実はテレビとインターネットの情報へのアクセス方法にはもう一つ相違点があります。
インターネットで情報にたどり着くためには、
検索をかけるなり何なり、自分で何がしかの行動を起こす必要があります。
対して、テレビの場合は、放送される情報の取捨選択は放送者側に委ねられていて、
視聴者の選択肢は、チャンネル数に限定されます。
つまり、情報の受け手は、テレビの情報に対しては非常に受動的・客体的であり、
インターネットの情報に対しては非常に能動的・主体的だ、ということです。

家庭という環境を考えた場合、この差はさらに大きくなります。
茶の間でテレビをつけながら食事をする、というのは家族で一般にあることだと思いますが、
しばしば「チャンネル権の争い」が喧嘩のもとになるのは、
「見たいものが見られない」だけでなく、場合によっては「見たくないものを見せられる」からです。
さらに言えば、「面白いテレビが何もやっていない」と言いながら、
誰も見たい番組がないのに惰性でテレビがついているという状況も、時に起こります。

僕などは、見たい番組がなければテレビはつけない、
見られない時間に放送している見たい番組を録画しておいて一人で見る、というタイプです。
バラエティやドラマといったゴールデンタイムの番組に興味がない人や、
仕事などでゴールデンタイムにテレビが見られないという人は、同じような感じでしょう。
実のところ、こういうテレビの見方は、情報の取捨選択という点では、
インターネット的な情報の享受をしていると言えます。

「主体的」「能動的」という言葉は、現代社会ではたいてい良い意味で使われる言葉です。
この場合の変化にも、もちろんプラスの面はあります。
20世紀の流行の高い画一性にテレビが果たした役割の大きさは、言うまでもないでしょう。
僕はどちらかと言えば、そういう画一性に辟易した口です。
テレビ時代の終焉は、そういう画一性の喪失でもあります。
逆に、SNSなどにより、これまでは社会的に少数派の嗜好を持っていた人たちも、
簡単にコミュニティを作ることができるようになりました。
数がある程度集まれば、商業価値が発生し、新たな商品やサービスが継続的に供給されます。
おそらくこれからの時代は、マイノリティにとってはかなり生きやすい時代になるでしょう。

というよりも、社会からメジャーというものが失われ、
社会全体がマイナーなものの集積になるのかもしれません。
よく日本史の研究状況が「たこつぼ」化していると言われますが、
言ってみれば、この状況は社会全体のたこつぼ化です。
考えてみると、テレビ時代の状況がある意味異常で、元に戻っただけなのかもしれませんが。

ですが、手放しでその能動性を賛美してよいものか、という気もします。
なぜなら、「興味があるものだけ見る」というのは、
「興味がないものは見ない」ことの裏返しだからです。
世の中が興味があるものだけで構成されているのではないのは当然ですし、
興味がないけれど必要はあるものだってあります。
何より、興味があるものだけを見るという姿勢は、
「まだ知らないけれど、知れば面白いもの」に行き会う可能性を減じます。
それは快適でありながら、自分で自分の枠を狭める行為です。
コミュニケーションという点については、現実空間での人とのつながりと
ネット上での人とのつながりとは「同じではないが延長線上のもの」だと思っているので、
そこはあまり心配はしていません。
(実社会での人間関係がある部分で選べないものであるのに対し、
ネット上での人間関係は選択的に構築できますから、快適なのはある意味当然ですし、
逆にそこから実社会での人間関係につながって行くこともザラにあるわけで。)
むしろ個人的に気になるのは、インターネットというツールが、
人間の関心そのもののあり方の偏差を強める方向に作用することです。

さらに言えば、ネット上で触れた情報を、私たちは意識的に、あるいは無意識のうちに、
自分たちの嗜好や価値観によって、場合によっては正誤と関わりなく、選別しています。
たとえば、インターネット上のデマが、否定されても残り続けるのは、
そのデマを信じたい人や、一度聞いた情報が頭の中で書き換わらない人がいるからでしょう。
あるいは、何か意見の対立するトピックについて検索をかけた場合、
自分なりの見解があれば、それが強固なものである時ほど、
おそらく自分の見解と反対の立場に立った情報は見過ごされることになるでしょう。
また、自分の求めている見方と異なる検索結果が提示された場合、
検索結果をどんどん下位までたどっていくことだってあるでしょう。

もちろん、テレビでだって、自分の求めているものと違う見解が流される場合があります。
ですが、その場合、たいていは違うと思うだけ・違うと口にする程度で、
もっと進んでもたいていテレビを消すかチャンネルを消す程度、
ひどくてもテレビ局に電話するぐらいのものです。
対して、インターネットでは、自分で違う見解を提示できるし、
自分の求める意見をどこまでも探していくことができます。

メディアリテラシー」といった場合、たいてい問題にされるのは情報提供者の主観ですが、
情報の受容者の主観だってそこには働くし、
インターネットはそのバイアスが強固にかかりやすいメディアだ、ということです。
自分の正しさを疑うこと、自分の興味に縛られず広い視野を持つことというのは、
別に現代に限らない普遍的な戒めだと思いますが、
インターネットが主要な情報ツールになった現代では、それがますます重要なのではないでしょうか。