批判の主体。

長文の記事なので、最初の段落だけ引用します。
全文をお読みになりたい方は、下のリンクを参照してください。
菅首相側、北の拉致容疑者親族の周辺団体に6250万円献金産経新聞
http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/110702/crm11070208000002-n1.htm
http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/110702/crm11070208000002-n2.htm
 菅直人首相の資金管理団体草志会」が、北朝鮮による日本人拉致事件容疑者の親族が所属する政治団体市民の党」(東京、酒井剛代表)から派生した政治団体に、計6250万円の政治献金をしていたことが1日、分かった。年間の献金限度額上限の5千万円を支出した年もあり、大口の献金者だったことがうかがえる。政府の拉致問題対策本部長でもある首相側の献金先としては「不適切」との批判を受けかねない。
記事の内容そのものにも言いたいことはいろいろあります。
一つだけ書くと、「日本人拉致事件容疑者の『親族』が所属する」って、
いつの間にか日本は血縁による連座制が適用される前近代社会に逆戻りしたんですかね。

が、それはまあ今回書きたい内容のメインではないのです。
今回取り上げたいのは、引用部分最後の言い回し。

「不適切」との批判を受けかねない。

たまたま産経の記事を取り上げてますけど、
この手の表現は、実のところ大小さまざまのメディアで使われています。
「批判が上がることが予想される」とか、
そういう「受動態」と「予測」を用いたフレーズです。

この種の表現が用いられる理由は、おそらく「報道の中立性の確保」にあります。
思うに、この種の表現が用いられている場合、
たいていはその書き手や媒体自身がその出来事に批判的な意見を持っているのです。
なぜなら、その出来事をニュースとして取り上げているのは、
その出来事には批判の対象としてのニュースバリューがあると判断しているからであるはずだからです。
批判される要素がないと判断しているのであれば、
そもそもニュースとして取り上げる必要がありません。
ですが、「報道の中立性の確保」の観点から「事実」と「意見」は別けて提示せねばならず、
別けて書くにはそれ相応の分量と内容とが必要です。
そうした時に、こうしたフレーズは非常に便利なのです。
なぜなら、受動態なので批判の主体は明示されず、また断定を避けた可能性の提示にとどまりますから。

しかしながら、僕は思うのです。
この種の表現は、マスコミが主体的に批判を行うこと以上に罪深い姿勢なのではないかと。
マスコミ自身による主体的な意思表示の代表的なものは、新聞の社説です。
社説に対して責任を感じない新聞はないでしょうし、
執筆者も編集委員など社の責任を負うべき立場の人間です。
読み手も、投書などの手段で当事者に直接的に意思表示を行うことが可能です。
ですが、たとえばこの記事で、
仮に「あなた方は容疑者の親族であることには責任が生じると考えるのか」と問うたとして、
新聞社側は別にこれに回答する義務はそもそも生じないのです。
だって批判の主体は新聞社ではないのですから。

別にマスメディアに関わる人間が責任逃れの意図を持ってこうした表現を使っているとは思いません。
事の始まりは、おそらく先に記したような「報道の中立性」の問題でしょう。
ですが、こうしたフレーズの使用は「無責任な報道」に結果的につながる、ということです。
そもそも、たいていの場合「~との批判を受けかねない。」という一文がなくても、
その記事は文章として成り立つのです。今回取り上げた記事でもそうです。
「報道の中立性」ということで言うなら、そもそもこんな一文は付けなければ良いし、
批判することが必要なときは、自身が批判の主体であることを明確にして主張をするべきでしょう。