推論の主体。

みなさんは次の1~3のどの表現が一番しっくりくると感じますか?

1.「AがBを行ったのは、Cという事情によるものであろう。」

2.「AがBを行ったのは、Cという事情によるものと考えられる。」

3.「AがBを行ったのは、Cという事情によるものと考える。」


1~3はどれもほぼ同じ文意です。
なのですが、「自分が文章を書くときにどの表現を使うか」と考えると、
けっこう意見が分かれるのではないかと思います。
というか、現にこのあいだ分かれたんです。

まず、私自身はどれで書くかというと、おもに3の表現を使います。
で、先日ある企画ものの原稿を書く機会があったときに、
査読のない原稿を書くのって他人の意見が聞けなくて不安だよねーということになって、
同じ企画で書くことになっていた友人と、提出前に原稿の見せ合いをしたんですね。
で、友人曰く、「これはもう本当に、好みとか受けてきた指導とかの問題だと思うんですけど」
という前置き付きで、
「私は2の表現を使うように指導されてきました」と。

2と3の違いは何か。
私が好んで3の表現を使う理由は、その推測の主体が「私」であることを明示したいからです。
文章上明示されていなくても、きっと「考える」主体は「私」でしょう。
もちろん、それがもっとも論理的だと考え、
また、他の人も妥当だと認めてくれるであろうと考えて提示している推論ですが、
あるいはそう考えない人がいるかもしれません。
私としては、「あなたはどう考えますか?そう思いませんか?」と問いたいし、
そう思わないという人には、ぜひ異論を出してほしい、という考えもあります。

対して2は、文法的に言えば受動態の文章です。
受動態という発想がすでにして英語的なので、ついでに英語的に能動態に直してみると、
その主語となるのは「They」ないし「We」でしょう。
要するに「(一般的にそのように)考えられる」ということです。
友人も言っていましたが、
つまり「その推論は一般性や普遍性を持つ推論だ」というニュアンスを持たせたい、ということですね。
読者に対するアプローチとしては、より説得的に提示したいということになるのだろうと思います。

結論の出る話ではないのですが、考え方の違いがわかってなかなか面白かったです。
いつか他の人の意見も聞いてみたいところです。
みなさまはいかがでしょう?