安全に関わるコスト。

一昔ならぬ五昔ほど前ならいざ知らず、現代において、
飛行機に乗るとき、「今から乗る飛行機が落ちるかもしれない」と思って乗る人はほとんどいないでしょう。
現在の飛行機はそれだけ信頼されている乗り物です。

が、これはあくまでも乗る側の問題で、
もしも航空機メーカー・航空会社・行政が「飛行機は落ちることはない」という前提で航空機を運用したら、
とんでもないことになるのは言うまでもありません。
極端なことを言えば、「うちの航空機は絶対落ちませんから救命胴衣なんて要りません」とか、
「うちの航空機は絶対落ちませんから、落ちた場合の賠償なんて想定していません」とか。

現実にはそれに近い運用がなされていた実例はあって、
1994年に名古屋空港で起きた中華航空機墜落事故で、
当初中華航空は、犠牲者の遺族に対し、当時ワルソー条約で定められていた上限の責任制限規定額である
2万ドルを越える賠償金を払うことを拒否しました(結局訴訟で一人当たり約2200万円で和解)。
現行のモントリオール条約(2003年発効)で賠償限度額は無制限に引き上げられましたが、
それ以前は一部航空会社が自主的に約款で賠償限度額を無制限としていたものの、
中華航空はそうではなかったので、このような事態になったわけです。

緊急時に備えた設備などを整え、万一の場合の賠償にも備えたとして、
(約款で無制限保証を定めて、いざ落ちたら「財政上の理由で支払えません」では無意味ですから)
そうすると、必然的にその分のコストは運賃等に上乗せされます。
それが全コストのうちどれだけの割合を占めるかはともかく、
安全に関わるコストは利用者の支払う対価に影響を及ぼすということです。

さて、これは一例として航空機の旅客運賃を挙げたのですが、
これを原子力発電に当てはめるとどうでしょう?
単純比較できない点ももちろん多くありますが、
少なからず共通点が存在することに気付くはずです。
たとえば、浜岡原発について非常用発電機や制御棒など重要機器が複数同時に機能喪失することが、
「すべてを考慮すると設計ができなくなる」という理由で想定されていないことが明らかになりました。
ですが、現実にこうした事象が発生した以上、今後新たに原発を設計する際には
この点もそれ以外のさまざまな事態も新たに想定する必要がありますし、
既存の原発についても当然そうした観点から再設計が必要になるでしょう。
新たに発生するこういった諸々の設備投資やその維持費は、今後のコストに上乗せされます。

そして何より、「原子力損害の賠償に関する法律」が1961年に制定され、
事故等による被害について、通常の条件下で事故が起きた場合は電力会社が無限責任を負い、
「異常に巨大な天災地変又は社会的動乱」による事故の場合は国が必要な措置を取ることとなっていましたが、
いざ事故が起こってみてわかったことは、
だからといって万一の事態に備えた処置なんて誰も想定していなかったということです。
もちろん、巨額の財源を事前に想定してプールしておくことは不可能なので、
これは言わば「算定不可能なコスト」ですが、
今回これが顕在化した以上、逆に今後はその総額がコストとして上乗せされるということです。
今回の補償金を東電が負担するのであれば電力料金に加算されるでしょうし、
国が負担する部分が発生すれば、それは税金という形で加算されます。
さらに言えば、今後は万一の事故が発生することを前提としたスキームを準備することが不可欠となるでしょう。

原子力発電について、推進・擁護する立場からのうたい文句は、
従来は「安全でクリーンなエネルギー」というものでしたが、今回の事故でその神話は崩壊しました。
結果として、現状で原子力発電の必要性を主張しようとすれば、
「コストが安い原子力発電は日本の産業のために必要である」と言わざるを得ませんし、
現にそうした発言が多くなされています。

私個人の考えはまた別の記事で近いうちに書こうと思いますが、
とりあえず「安全か経済性か」という二項対立で考えたくはありません。
それは、たとえ最終的には態度決定が必要となるにせよ、
判断を下すためには、その前に安全も経済性も両方検討しなければならないのは当然のことだからです。

その上で、現時点で私が持っている疑念は、
上記したようなコストを上乗せしても原子力発電は本当に安価なのか?
ということです。
この場合、「それでも安価である」と主張するならば、
まあ正直なところそう主張する人に根拠を要求したいところですが、それは酷だとしても、
当事者である政府・国会・電力会社が原子力発電を継続するなら、証明責任が生じるはずです。
電力料金・税金の上げ幅よりも、原子力以外の方法で発電した場合の費用の方が高くつくのだ、と。

さらに言えば、すでに報道されているように、発電原価の算出に際して、
電源三法による自治体への交付金や、使用済み核燃料の処理に関わる費用など、
現業部門以外の部分で発生するコストが加算されていません。
たとえば、自治体への交付金を、最新鋭のガスタービン発電への補助に振り替えれば
火力発電のコストがどのように変わるかなど、
こと経済性の問題のみに限っても、考えるべき要素は他にもあるはずです。

少なくとも、今回の事故の被害に対する補償の総額も決まらない状況で、
それを計算に入れずに「原子力発電は安価である」と論じることなどできないと私は思います。