講読も楽し。

10月末に差し掛かり、後期もはや3分の1を消化。
今年初めて担当した史料講読の授業は、
前期は登録者が40人超だったせいで、もうとにかく人数を消化するだけで精一杯でしたが、
後期は30人超に減ったおかげで、だいぶ余裕が出てきました。
1回あたりの人数が4人か3人かで、ペースがずいぶん違いますからねー。
結局のところ、空いた時間の分だけ、講師が自分でしゃべり倒してるわけですけれども(笑)。

後期は『玉葉』(※平安末~鎌倉初の貴族、藤原兼実の日記です)を読んでいます。
先週読んだ記事は、藤原行隆が兼実に
うちの子たちは崇徳院藤原頼長の霊の言葉を聞くことができて、
 この預言がまたよく当たるんですわ~」と吹きまくって帰るという
なかなか謎の面白い記事で(しかもその預言の内容が外しまくっているという…w)、
学生の反応もなかなか良かったのですが、
今週読んだ記事は、兼実がライバルの松殿さん一家の息子たちをボロクソにけなすといういささか地味な内容。
とはいえ、面白い記事だけをつまみ食いみたいに読んでるだけじゃ
史料を読む練習にはなりませんから、仕方ありません。
というわけで、当時の摂関家内部の対立や、貴族の昇進体系について、学生相手に熱く語ってきました。

我ながら地味でディープな内容だなあ…という内容で、
なんとなく教室の雰囲気も「お勉強してます」という感じだったのですが、
「全然じみじゃないです、とても興味深かったです!」と言ってくれる学生もいて、
やって良かったなあ、と思いました。
いや、そりゃあまあ「よく頑張りました」的に気を遣ってくれたのかもしれませんが、
嫌いな先生相手にそういう気を遣おうとは思わないじゃありませんか(笑)。

考えてみると、史料を読む力というのは、単に漢文を文章として読めるだけでは不十分なわけで、
必要なのは書かれている内容を理解することです。
具体的には、「当時の人にとって当たり前だからわざわざ書かないこと」を
読み手の側が自分で補完して読めるようにならないといけない、ということですよね。
そのためには、読み手の側がその時代についての知識を十分持ち、
それを文脈に沿って当てはめられるようにならなくてはいけない。
というわけで、辞書的な言葉の意味は報告者に自分で調べてきてもらうとして、
自分の仕事は、そういう脳内補完用の知識を学生に提示して、
学生さんに「史料が読める」というのがどういうことなのかを体験してもらうことなのかなあと、
講読の授業を初めて持ってみて、思うようになりました。
最近は、次回にどんなことをしゃべろうかと、あれこれ考えて楽しんでいます。

…書いてるうちに思いましたが、教える側としては「地味ですけど」なんて言わずに
「ここがこの話の面白いところなんだぜい」とアピールした方がいいのかしらん。
うん、でもキャラじゃないなそれ。