歌い納め。

今年最後の第九の演奏会が終了しました。
昨年に引き続き、京都ミューズで1回、京響コーラスで2回、都合3回第九を歌ったことになります。

今年は京都ミューズの指揮者が広上淳一さん、京響コーラスの指揮者が高関健さんだったのですが、
どちらも個性的な第九で面白かったです。
広上さんは割とロマン派的な解釈で、ご本人とのキャラクターとも相まって、
とてもエンタテイメント性の高い第九でした。そしてご本人は指揮台の上で踊りまくっていました(笑)。
お客さん、合唱団はもちろん、オケ、ソリストに至るまで、本当にノリノリで楽しかったです。
一方、高関さんは古楽的な解釈で、楽譜から導き出せる、ベートーヴェンの意図した音楽を、
とことん追求しようという、学究的な第九でした。
ただ、こういうアプローチって、うっかりすると理知的・無機的になり過ぎるところがあると思うんですが
(単純に言えば、音楽の作り方が理詰めになる)、指揮法とか言葉遣いとか表情とか、
高関さんの意図の伝え方がとても温かみがあって、ちゃんと血の通った第九になったのがすごいと思いました。
広上先生の乗せる力も本当にすごくて、指揮者のお仕事は、
まずは演奏者に自分の音楽をいかに伝えるかなのだなあと、改めて思いました。

最近の第九は合唱団が第一楽章からひな壇にいるのが当たり前ですが
(初めて歌った20年前は、第三楽章で入場するのが主流だったけどなー)、
自分の出番までの第一~第三楽章を聴いているのが、本当に楽しかったです。
昨日今日の2回公演で、おまけに初日の本番前のゲネプロ(最終リハーサル)でも聴いているので、
頭の中で第二楽章がずーっとぐるぐるしてます。
なにしろ、曲自体にリピート箇所があるので、一度はまり込んでしまうと無限ループから抜け出せなくて(笑)。

年に2人の指揮者の第九を歌うようになって、その思いをさらに強くしているですが、
古典の面白さというのは、解釈の多様性にあるのだなあと、しみじみ感じる今日この頃です。
今年のお二人のマエストロのアプローチは、けっこう両極に振れていたので、
ますますそう感じるのだと思うのですが。
楽譜に書かれている音楽を、「自分ならこのように表現する」というのが広上さんで、
ベートーヴェンの意図にできるだけ近付こうとする」のが高関さんなのかなあ、と。
以前振っていただいた下野竜也さんも、たぶん高関さんととても似通ったアプローチなんだと思うんですが、
面白いのは、お二人とも聴く側としてはロマン派的な演奏が大好きだとおっしゃるんですよね。
そういうアプローチが圧倒的多数派の中で、自分のオリジナリティを磨いていかれた結果が、
今のような立ち位置につながっていらっしゃるのかなあと、勝手に想像しています。

能でも歌舞伎でも落語でも演劇でもなんでも、同じものを演じると同じものが出来上がるのではなくて、むしろ、
同じものをやるからこそ、演者の個性の違いがはっきり見えてくるんですよね。
毎年必ずこの時期に演奏される第九という曲は、この点でうってつけの演目です。
第九のはしごをされる方というのはけっこう多いですが
(この週末は、土曜日に東京で読響、日曜日に京都で京響という方が多くいらっしゃったようで)、
きっとそういう方は、こういう楽しみ方をされているのかなと思います。

まあ、第九に関して言えば、指揮者の意図を実現するためには、合唱団の力量が不可欠なわけで…。
日本には、基本的にプロの合唱団って存在しないんですよね。
セミプロ的な団体や、プロの声楽家が集まって演奏することはありますけど、
第九ぐらいの規模になると、アマチュアを抜きにして演奏するのは難しいわけで。
そういう意味では、合唱というのはアマチュアの自分でも存在意義のあるカテゴリなので、
これからもできるだけ努力していこうと思います。体が楽器だから、楽器代もかからないし~。