『奥の細道』と『義経記』。

  卯の花に 兼房みゆる 白毛(しらが)かな

この句に見覚えがある方は結構いらっしゃると思います。作者は河合曾良
この句自体が有名なのではなくて、師匠である芭蕉

  夏草や 兵共が 夢の跡

この有名な歌と並んで登場するからです。『奥の細道』で、一行が平泉を訪れた際の句ですね。
昨日塾の授業で、この場面の解説をしていました。
で、はたと思ったことが一つ。「兼房って誰よ??」。
注ではたいてい、兼房は義経の家来である十郎権頭兼房で、
高齢ながらも義経が討ち死にする際に奮戦した、と書かれています。
が…そんな人聞いたことないぞ~。

で、今日大学で『奥の細道』に当ってみて疑問氷解。兼房は『義経記』に登場するキャラでした。
義経記』の中で、兼房はもともと義経の北の方の従者として登場します。
ところが、『義経記』では北の方は久我大臣(源雅通かな?)の娘という設定ですが、
史実では義経の北の方は河越重頼武蔵国の有力豪族)の娘ですので、これはフィクション。
小学館の『古典文学全集』(新訂版。ほんとは岩波の新古典体系の方が良いんでしょうけど、
手近に無かったもので…良い子のみなさんはまねをしてはいけません)の注によると、
久我家の支配下にあった当道座の琵琶法師による潤色と想定されるそうです。

そもそも、鎌倉期に成立した『平家』その他の軍記物と異なり、『義経記』は成立が室町期と遅く、
内容も伝説化したフィクションがかなり多いので、歴史学の史料としてはほとんど使いません。
ですが、世間一般に知られている義経像(「鞍馬で鬼一法眼に師事」などなど)は、
たいていが『義経記』以降に形成されたものなので、ギャップが激しい、ということになるわけです。

そうした事情はそれとして、『義経記』の北の方の設定がフィクションである以上、
十郎権頭兼房の存在も、まあフィクションといえるでしょう。
で、『奥の細道』に話を戻すと、
芭蕉一行の知識のもとは『義経記』だった
2少なくとも曾良は、兼房を現実の存在と思っていた
ということになるんでしょうか?(←かなり乱暴な話ですが、まあ私的なヨタ話だということで…)

まあ考えてみれば、現在でも小説に書いてあることと歴史的事実の間の差異が頓着されないことは
良くあるわけで、この辺は今も昔も変わらないのかなあ、と。
真面目な話として、「『奥の細道』に登場する史実をふまえたエピソードを色々検討すれば、
江戸時代の知識人の情報源を探るモデルケースになるんじゃないのか?」と思いましたが、
まあきっと、国文の方ではそういう研究はされてるんでしょうね。