歴史と小説のあいだ。(その一)

身も心も疲れているのに、みょうに神経が高ぶって眠れなくなってしまいました。
せっかくなので、こないだの『奥の細道』がきっかけで考えた話を少し。
歴史学を研究するものとして、歴史を題材にした小説というものをどうとらえるか、という話です。

個人的なスタンスをまず明らかにしておくと、「エンタテイメントとしての歴史小説」は大好きです。
主眼が人間を描くことにあり、そのための表現手段として、
舞台設定を過去の歴史上の一時点に置いている、という小説ですね。
この場合、「歴史」は「現代」・「近未来」・「SF」・「ファンタジー」などと等価なものになります。
別の角度から言えば、そこに書かれている内容が史実であることに基本的に重きを置かず、
ストーリーやキャラクター設定のリアリティに重きが置かれている小説、ということです。
この手の小説の場合、明らかに史実を変えている部分があっても、
それがストーリー展開上やキャラクター設定上必要なことであれば、ちっとも構わないと思っています。

一番わかりやすい例で言うと、例えば『平家物語』の殿下乗合事件についての叙述。
この事件、『平家物語』では摂政藤原基房と平資盛(清盛の孫・重盛の子)の従者が路上で乱闘騒ぎになり、
清盛大激怒で報復、それをいさめる温厚な重盛、という筋になっています。
ところが史実では、報復行為を積極的に執念深く行ったのは重盛であることが貴族の日記からわかります。
ですが、これは『平家物語』のキャラクター設定が、「強引で辣腕の清盛」・「温厚篤実な重盛」という
性格付けになっているために行われた改変で、その結果『平家』の世界観の中では首尾一貫しているし、
文学的完成度も上っていることは言うまでもありません。

この手の作品を書くタイプの作家で好きなのは、古くは吉川英治・山岡壮八・新田次郎
(この人たちがどの程度までこうしたことを自覚的にやっていたのかはまた別問題ですが…)、
現役だと田辺聖子田中芳樹塩野七生(フィクション性の強い物だけね。詳細は後述)・伴野朗。
別格が、芥川龍之介中島敦。(このお二方はもう文章の格調が抜きん出てますね。
漢学の素養が廃れた今、もう正統派でこの二人を超える人は出ないだろうな。)
鬼才が山田風太郎(この人はもう超越しちゃってる感じです。『柳生十兵衛死す』が最高)。

なお、森鴎外は、ちょっと歴史小説というカテゴリーにはならない感じなのでここでは除外。
井上靖はすっごい史料をよく読んでるのはわかるんだけど、個人的には正直あまり面白くない(苦笑)。
好きなんだけど。あ、でも『天平の甍』は面白かったな。『後白河院』がいまいちなんだよなあ。
以下言い訳みたいな感じですが、橋本治はなんとなく敬遠して読んでないので評価不能
酒見賢一は『墨攻』だけ読んで面白かったけど、それだけで評価するわけにも行かないのでパス、
佐藤賢一は気になってるけど読めてないので評価不能、といった感じです。
あと、中世前期をやっている人間なら避けては通れない永井路子杉本苑子の両御大ですが、
このお二方に関しては後述します。

さて、「エンタテイメントとしての歴史小説」について長々書いてきたところで、
この対極に置きたいのが、「歴史的事実を描こうとする歴史小説」です。
長くなったので、以下別記事にします。
例によって、続きはいつになることやら…まあ、あまり間を置かずに書くつもりです。

追記
なんか書き忘れた気がするな~と思っていたら、
司馬遼太郎陳舜臣という大阪外大出身の両巨頭をうっかり忘れておりました。
(寝付けなかったにもかかわらず論文を書かなかったのは、この手のうっかりが怖かったからです。
 「寝る前にラブレターを書いてはいけない」というのも、きっと似たような理由なんだろうな)
どちらの作品も大好きですよ。「エンタテイメント…」の方の作品に限ってという保留付きですが。
あと、柴田錬三郎はいわゆる「柴錬三国志」しか読んでませんけど、好きですね。
これ確か、数年前に新版が出た時にタイトルが『英雄三国志』に変わっちゃったんですよね。
旧題の『三国志 英雄ここにあり』・『三国志 英雄生きるべきか死すべきか』の方が
個人的には好きだったな…。