よらしむべし、知らしむべからず

昨日は塾の社会の授業があったので、その準備をしていたときのこと。
先々どんな内容を教えることになるのかと思って、テキストの内容をチェックしていたのですが…
ん?んん??

わかりやすいように目次の一部を抜粋するとこんな感じ。
世界地理の部分ですが…

3章 世界の国々
 8 アメリカ合衆国 中国
 9 東南アジア
 10 ヨーロッパ

こ、これだけ??
アフリカ・中近東・南アメリカオセアニアの国々はどこへ行ってしまったんでしょうか?
そもそも、韓国・北朝鮮・台湾・ロシアといった近隣諸国の項目がないのもどうかと思いますが。

塾のテキストは学校教科書準拠のはずなので、教科書も見てみました。
ある意味、もっとすさまじかったです。
教科書(O書籍)の章立てだけを抜粋してみると…

地域を調べる
第一章 身近な地域を調べる
第二章 日本の都道府県について調べてみよう(愛知県・滋賀県・福岡県)
第三章 世界の国について調べてみよう(中国・アメリカ・イタリア)
(カッコ内は私の注記)

…いや、発想として、調べる能力を伸ばすという方向性だというのは解りますけどね。
この発想で人間が地理について必要な知識を得ようとしたら、一生かかっても無理でしょう。
例えば、化学の元素の性質を知るために、逐一全て実験してるようなもんな訳で。
知識のプールの伝授という観点は全く無視されてますね。
知識というものが共有化され、次の世代が前の世代の到達点からスタートできるのが
人間の人間たるゆえんであるはずなのに。

暗記を「詰め込み」として否定する論調と言うのはしばしば見受けられますが、あんなものは絶対間違ってる。
そのラインをどこに引くかは問題としても、
最低限度の基礎知識というのは、まず覚えないとはじまんないんですよ。
英単語にしても、元素記号や化学式にしても、国名や首都名にしても、国語文法にしても、
数学の公式にしても。家庭科の料理の基礎だってそう。
記憶するという作業自体、記憶力そのものを鍛えるためのトレーニングとしても有効だろうと思いますが。
で、最低限度の知識のプールが基盤として共有されていることで、
一足飛びに次の段階から物事をはじめることができるわけです。

ゆとり教育だの詰め込みだのという前に、まず問われるべきは
「人は社会に出てくる前にどれだけの知識を身に付けているべきなのか」でしょう。
義務教育の年限にあわせて教える内容を減らす、というのは本末転倒で、
教える内容に合わせて教育年数を決める、というのがものの順序だ、と思うわけです。

こっから先、日本の都道府県がどこにあるのか、なんていうことから話し始めにゃならん相手が
世の中にゴロゴロと出てくるのか…とほほほ。
(もちろん、教えたところで覚えてもらえない、ということはままあるわけですが、
 そもそも教えられることがない、というのとはまた次元が違う話。)

知識偏重などと言われることもありますが、この国が知識に重きを置いたことなんて一度もないでしょう。
はっきり言って、これまで重視されてきたのは単に学歴であって、
知識は受験競争を勝ち抜くためのツールとして見られて来たに過ぎません。
大学全入時代で、そもそも高校受験というものがほぼ形骸化している現在は、
逆に教育改革のチャンスだと思うんですけどねえ。
ゆとり教育撤廃、30人学級、中高一貫教育(個人的には小中高一貫が理想)、
卒業認定制度の厳格化(個人的には年度毎・教科毎に進級試験を課せばいいと思ってますが)。
まあ、無理かな。

教科書見てると、お上の発想は「よらしむべし、知らしむべからず」なんだなあとつくづく思います。

えーっと、とりあえず、お子様をお持ちのみなさまは、
一度教科書をご自分でご覧になって、現状をチェックなさるのがよろしいかと存じます。
この教科書でいいと思われるならそれもよし、ダメだと思えば自衛するしかありません。