続・生まれてはじめての…。

えー、一個下の記事は、事情を説明しておかないと「何のことやら」ですが。
実は金曜日に、兵庫の方の某大学の「怪異学への招待」という公開講座の一回分として、
生まれて初めて講義をすることになっておりまして。
で、一個下の記事は、その内容の冒頭部分です。
(そのあとに続くのは、以前『怪異学の技法』でもう原稿化したもの)
講義をすること自体は、恠異学会の掲示板にも出ている上に、
KG大のN先生のゼミの掲示板で名前入りで全国発信されているので(笑)、
今更伏せてもしょうがないのですが。

厳密に言うと、この手のことをするのは初めてではありません。
去年の九月に、「高校生120名様ご一行に1時間講演する」という荒行をこなしております。
ですが、今回は生涯学習センターの企画なので、対象は基本中高年のかたです。
うーん、どうなるんでしょうね。
感想は金曜日に実際に話をしてから、ということで。

で、何でわざわざ冒頭部分を掲示したかというと、
要するに何で自分が怪異学をやってるか、とか、
何で怪異学が成り立つと思うのか、という話をするためです。
一言で言えば、
「自分にとって怪異はそれそのものが研究対象なのではなく、
 研究対象と自分の認識の偏差を計るための切り口である。」
ということになります。

歴史学って、同時代に書かれた史料を材料に、現代の私達がそこに書かれた内容を再構築して
一つの像を結ぼうとする営みだと思うわけです(それが≠「事実」であることは前提として)。
で、そのためには、まずは史料を、現代人の心性ではなく、同時代の心性で読み解こうと
しなくてはならない、と思います(実現可能かどうかはともかく、方向性の問題として)。
それで、そうすると例えば「文献史料から見る限り、現代人であるわれわれと、中世の人間の世界認識は
どういった点でどう異なると思われるのか」ということが問題になるのですが、
そうしたズレがとりわけ大きいと思われるポイントとして、
「怪異」というものに対する考え方、というものが指摘できる、と。
そして、中世人の世界観の中での怪異は、どうやら現代人の世界観より大きな比重を占めるらしい。
だから、怪異というものを切り口にして、彼我の世界観を比べてみようじゃないか、
というのが私のスタンスです。

そうすると、「現代人にとって不思議(=科学的に説明がつかない)が、昔の人にとっては当然のこと」
というのは、必然的に研究対象に入ってくるわけです。
だから、私にとっての「怪異」とは、
誰かにとって「あやしい」(=その人の世界観の中で合理的に説明できない)現象
ということになります。

別にこれが唯一無二の規定だとはさらさら思いませんが、これのいいところは、
「彼我の世界観や認識の差」を対象にする分野の研究なら何でも、
そのための切り口を「怪異」に設定すれば、怪異学に参入できる、というところです。
民俗学でも文学でも宗教学でも社会学でも心理学でも、何でもいけると思うんですが。

「恠異学会の掲示板で書きなさいよ」っていう内容ですが、あんましそういう気は起こんないんですよね。
自分のための場所でひっそりと書きたい(笑)。
(別にこの場でコメントが付いて議論することに関しては無問題)
つーか、この程度のことはみんな考えてんでしょ?と言いたい気分なんですが。
みんななかなか本音を言わないもんですよねー。
私はそういう沈黙がたいそう苦手です。

脱線ですが、会議とかで「これをいったら自分がその仕事しなくちゃいけなくなるんだろうな~」と
みんなが黙ってるような時は、あほらしくなって自分でとっとと口に出してしまいます。
貧乏くじ引こうがなんだろうが、無駄な時間を過ごすよりそのほうがよっぽどまし。