相国寺(おまけ 墓地)。
相国寺の「おまけ」です。
頼長と言えば、教科書的には「保元の乱で負けて死んじゃった人」ですが、
院政期をやってる人間にとっては、「表の顔は儒学に打ち込む勉強家、夜の顔はめくるめく男色家、
闇の顔は正義の名の下に部下に命じて赦免された人間を殺させる修羅」という、あの頼長ですよ。
(↑我ながらすごい言いようですが、でもこれ、ちゃんとご本人の日記で残ってるんだもんなあ…。)
院政期をやってる人間にとっては、「表の顔は儒学に打ち込む勉強家、夜の顔はめくるめく男色家、
闇の顔は正義の名の下に部下に命じて赦免された人間を殺させる修羅」という、あの頼長ですよ。
(↑我ながらすごい言いようですが、でもこれ、ちゃんとご本人の日記で残ってるんだもんなあ…。)
どれどれと見に行きます。
墓地は建物の間の細い道の先にあるのですが、この手前の建物はお風呂場。
「宣明」(せんみょう)と呼ばれるこの浴室も、1596(慶長元)年に建てられたものだそうで。
ちなみに、湯船につかるのではなくて蒸し風呂です。
墓地は建物の間の細い道の先にあるのですが、この手前の建物はお風呂場。
「宣明」(せんみょう)と呼ばれるこの浴室も、1596(慶長元)年に建てられたものだそうで。
ちなみに、湯船につかるのではなくて蒸し風呂です。
さて、「藤原定家墓・足利義政墓・伊藤若冲墓」・「長州藩士墓」はすぐ見つかったんですが、
「藤原頼長墓」がどうにも見つからず。
・「藤原定家墓・足利義政墓・伊藤若冲墓」(定家の子孫冷泉家の邸宅はすぐ南。)
・「長州藩士墓」(禁門の変での戦死者の慰霊塔です。京都御苑は相国寺の南側ですから。)
「藤原頼長墓」がどうにも見つからず。
・「藤原定家墓・足利義政墓・伊藤若冲墓」(定家の子孫冷泉家の邸宅はすぐ南。)
・「長州藩士墓」(禁門の変での戦死者の慰霊塔です。京都御苑は相国寺の南側ですから。)
ちょうど見回りの人が来られたので聞いてみました。
「あのー、藤原頼長の墓って、どこにありますか?」
「藤原頼長の墓ね、ないらしいんですよ。」
え?
「いや、ウワサらしいんですよ、ウワサ。」
ウワサ??
「文献上はあるらしいんですけどね、現物はないらしいんです。」
「あのー、藤原頼長の墓って、どこにありますか?」
「藤原頼長の墓ね、ないらしいんですよ。」
え?
「いや、ウワサらしいんですよ、ウワサ。」
ウワサ??
「文献上はあるらしいんですけどね、現物はないらしいんです。」
そういうことですか…って、じゃああの案内板はいったい?とは思ったものの、
まあ言ったところで仕方ないので、すごすごと退散。
まあ言ったところで仕方ないので、すごすごと退散。