歴史の教科書はなぜ「絶対」ではないか。

(はじめに、ここでいう「歴史学」=「文献史学」だ、という点についてはコチラをご覧下さい。)

前回に引き続き、ということで。

歴史研究に携わっている人で、
「歴史を『研究する』っていっても、教科書にもう書いてあるじゃん。何するん?」
みたいな反応をされたことがない人はいないんじゃないでしょうか。
とりあえず、僕は言われたことがあります。それも何度か。

で、まずは「歴史を『研究する』ってどういうこと?」ということについてですが、
これは逆に、「じゃあ、教科書に書かれている『歴史』とはなんなのか」ということでもあります。

前回書いた通り、(狭い意味での)歴史学は、
文字で書かれたものから過去の姿を復元する営み」なのですが、
この「文字で書かれたもの」のことを、歴史学では『史料』と呼んでいます。
それで、史料に書かれていることから直接読み取れる情報があるわけですが、
これを歴史学では、「歴史的事実」、略して「史実」と呼びます。
例えば、平信範という貴族の日記の、1156年7月11日の内容を読むと、
平清盛源義朝が、崇徳上皇藤原頼長の立て籠もる白河北殿を攻めた」とわかる、とか。
(要するに、「保元の乱」と呼ばれる事件のことですね)

で、じゃあ乱の原因は?その後の影響は?などといったことについて、
他の史実を組み合わせて作った論理が「学説」で、学説を作り出す作業が「研究」です。

分かりやすく言えば、史実は「材料」、研究は「調理」、学説は「料理」のようなものです。
おんなじ材料が用意されても、組み合わせが違えば別の料理が出来上がることもあるし、
同じ料理でも旨い不味いの差は出ます。新しい食材が加われば、メニューも変わります。

歴史学でも同じことで、新しい史料が発見されることもあるし、
史実の選択と組み合わせと取り扱いの違いで、いろいろなバリエーションが生まれるし…。
言ってみれば、歴史研究者という名のシェフは、いい食材を目を凝らして探し、
新しい食材の取り合わせを試行錯誤し、新しい調理法(=歴史理論)を取り入れ、
より美味しい料理を作り出すために、日々努力している、というわけです。
「より美味しい」とはつまり、歴史学の場合では「より説得力がある」ということになりますが。

そして、そうやっていろいろ出された学説の中で、
「それは確かに説得力がある」と賛成多数のものが、「通説」と呼ばれます。
(べつに、アンケートが取られたりするとかいうわけではありませんが)
通説は、いわば「その時点での正解」です。

初めの問いに話を戻すと、
教科書に書かれている『歴史』とはなんなのか」に対する答えは、
それは『史実』と『通説』だ」ということになります。

このことがわかれば、歴史の教科書に書かれていることが絶対ではない理由の一つは、簡単ですよね。
通説はあくまで「その時点で賛成が一番多い学説」でしかないので、
もっと説得力のある学説が出されたり、別の史実が加えられて結論が変わったりしたら、
通説は変わってしまうのですから。
実のところ、歴史の研究とは、「通説を書き換える作業」そのものです。

じゃあ、史実の方は変わることはないの?というと、決してそうではありません。
むしろ、史料と史実にこそ、もっと根本的な歴史学の『限界』があるとさえ言えます。
それについては、次の記事で改めて、ということで。

(電車の中でヒマな時にケータイ使って書いてるんで、続きはそのうち遠出をしたらまた書きます 笑)