鳥羽殿跡(鳥羽・伏見を歩く その1)。
昨日は鳥羽の辺りを歩いてきました。
梅雨の晴れ間にと思ったら、暑いこと暑いこと…。
結果、またも日焼け。今回は会った人がビックリするくらい。
帰ってからお風呂で、こんな焼けたんか!って自分でもビックリしましたけどね(笑)。
腕の表側と裏側で色が違うんだもんな~。
梅雨の晴れ間にと思ったら、暑いこと暑いこと…。
結果、またも日焼け。今回は会った人がビックリするくらい。
帰ってからお風呂で、こんな焼けたんか!って自分でもビックリしましたけどね(笑)。
腕の表側と裏側で色が違うんだもんな~。
で、まずは鳥羽周辺の地図を出しましょう。
このあたり一帯に院政期にあった離宮が、鳥羽殿です。
白河院が在位中の1083年に造営し、その後も白河院と鳥羽院によって造営が進められました。
地図で見ても分かるように、旧賀茂川と桂川の合流地一帯を占めていたと考えられており、
水運など交通の要衝として重視されました。
また、多数の宗教施設を併設していたことから、この点でも重要な存在でした。
具体的に知られている施設は、殿舎が南殿・泉殿・北殿・東殿・田中殿・馬場殿、
寺院が成菩提院・勝光明院・安楽寿院・金剛心院です。
ただ、後白河院以後はあまり重視されなくなり、南北朝内乱期以後は急速に荒廃が進みます。
(詳しいことは京都市歴史資料館のこのページをご覧下さい)
このあたり一帯に院政期にあった離宮が、鳥羽殿です。
白河院が在位中の1083年に造営し、その後も白河院と鳥羽院によって造営が進められました。
地図で見ても分かるように、旧賀茂川と桂川の合流地一帯を占めていたと考えられており、
水運など交通の要衝として重視されました。
また、多数の宗教施設を併設していたことから、この点でも重要な存在でした。
具体的に知られている施設は、殿舎が南殿・泉殿・北殿・東殿・田中殿・馬場殿、
寺院が成菩提院・勝光明院・安楽寿院・金剛心院です。
ただ、後白河院以後はあまり重視されなくなり、南北朝内乱期以後は急速に荒廃が進みます。
(詳しいことは京都市歴史資料館のこのページをご覧下さい)
で、周辺に現存する寺院等については別記事で紹介するとして、まずは殿舎の現況から。
はっきし言って、建物はまーったく残っていません。
遺跡の現況もヒドいもんです。
まがいなりにも史跡公園になっているのは、
はっきし言って、建物はまーったく残っていません。
遺跡の現況もヒドいもんです。
まがいなりにも史跡公園になっているのは、
・田中殿跡
・南殿跡
だけ。
南殿跡のところの看板も、ハゲハゲでなんか物悲しかったなあ…。
一応、南殿跡の北には「秋の山」と呼ばれる庭園の築山が現存していますが、
当時をしのぶよすがといえば、その程度です。
まあ、遺跡なんてそんなもんですけどね、たいてい。
それでも楽しい人には楽しいし。僕は楽しかったクチです。
だけ。
南殿跡のところの看板も、ハゲハゲでなんか物悲しかったなあ…。
一応、南殿跡の北には「秋の山」と呼ばれる庭園の築山が現存していますが、
当時をしのぶよすがといえば、その程度です。
まあ、遺跡なんてそんなもんですけどね、たいてい。
それでも楽しい人には楽しいし。僕は楽しかったクチです。
もともとこの付近一帯の発掘が行われたのは、名神高速の京都南ICの工事のためだったんですね。
で、いっぱい遺構も出たんですけど、開発もどんどこ進んでしまった、というわけ。
田中殿跡の写真のうしろの方にもチラッと見えてますが、このあたり一帯は大ラブホテル街です。
まあ、別に僕はさほど気にならない性質なんですけど、
そういうのが苦手な方は、あらかじめ覚悟して行かれるほうがよろしいかと。
で、いっぱい遺構も出たんですけど、開発もどんどこ進んでしまった、というわけ。
田中殿跡の写真のうしろの方にもチラッと見えてますが、このあたり一帯は大ラブホテル街です。
まあ、別に僕はさほど気にならない性質なんですけど、
そういうのが苦手な方は、あらかじめ覚悟して行かれるほうがよろしいかと。
次に寺院等をご紹介しますが、コチラの方はなかなか一般的にも楽しいんじゃないかと思います。