真実と史実のあいだ。

(はじめに、ここでいう「歴史学」=「文献史学」だ、という点についてはコチラをご覧下さい。
 ちなみに、バックナンバーは以下の通りです。
 歴史学って何ですか?(一部改訂)
 歴史の教科書はなぜ「絶対」ではないか。
 歴史学の「限界」について。


前回書いたことの結論を一言で言うと、
文字情報から過去の姿を復元する歴史学のアプローチでは、過去の事実にたどり着くことはできない
ということになります。
これは、歴史学の方法論に内在する限界です。
じゃあ、歴史学という方法によって、人間はいったい何を明らかにできるのでしょうか?

ここで、僕の体験談を一つ。
もう6・7年前、とある学会のあとの懇親会でのこと。
そこで同席していた、僕より一回り以上年上の、国文学の研究者が怒って言われたことには、
「歴史の研究者は、説話文学の内容を簡単に事実として取り扱いすぎる。」と。
で、僕は説話を史料として扱ったことはなかったので、あくまで一般論として答えたことには、
「究極的には、文学作品に限らず、たとえば貴族の日記から読み取れるものは、
 筆者の主観だけだってことになっちゃいますけど、どうなんでしょうね。」
と、問題提起しつつ、居合わせた一回り以上年上の歴史研究者にバトンタッチ(笑)。
んで、その方が言われたことには、
「話のプロットそのものはともかく、プロットに関わらない設定については、
 基本的には当時の一般的なあり方を反映したものと考えていいんじゃないか。」と。
それに対して、国文学の研究者が言われたことには、
「そんなことがどうして証明できるのか」と。

言っている内容は三者三様ですが、今にして思えば、自分の当惑が何に由来するのか、わかる気がします。
要するに、僕は歴史学のアプローチの持つ問題に薄々気付いてはいたけれど、
それへの対処法を持ち合わせていなかったのでしょう。

今の僕なら、きっとこう答えます。
歴史学で言うところの『歴史的「事実」』っていうのは、真実とは別物なんですよ。


ここで発想を逆転させて、
現在まで残された過去の記録を活用するためには、どのようなやり方が現時点で一番効果的だろう?
と考えてみましょう。

文字で書かれた内容の真偽判定が不可能なことは確実です。
じゃあ、文字で書かれた内容の真偽の問題を、棚上げしてみたらどうでしょう?
つまり、文字で書かれた内容をとりあえず『歴史的「事実」』=「史実」として、
「史実」=過去の真実かどうかということは、この際問題にしない、ということです。
で、歴史学というのは、残された「史実」から復元できる過去の姿を、仮説として組み上げる作業である、と。

そうやってつむぎだされた「歴史」が不完全なものであり、多くの誤りを含んでいることは確実です。
「どの程度真実から外れているか」という度合いすら、測定することはできません。
ですが、だからといって無意味かといえば、決してそうではないでしょう。
文字で書かれたものがいかに主観的事実の集積であることを理由に、
史料を放棄したり、あるいは記主の主観のみの再構築に限定することと比べて、
より史料を活用できていれば、さしあたっては十分なわけですから。

「歴史学って何ですか?」で書いたように、過去の姿を復元するための材料は、
遺物・遺跡・絵画・彫刻・建物・図面…などいろいろありますが、
それが主観的事実であるという欠陥を持つものであれ、文献資料に含まれる情報=「史実」が、
もっとも多様で、多彩で、多量であると言えるでしょう。
現時点で、そしておそらく今後もずっと、文献資料に含まれる情報を最大限活用する方法は、
「史実」≠「真実」であることは前提に、とりあえず史実から組み立てられる過去の姿を描き出す、という
現在の歴史学の手法である、僕は思います。


むしろ、心するべきなのは、「歴史というのは良くも悪くもそういうものですから」という割り切りを、
研究する側も、研究成果を受けとる側も、前提として持っておくべきだ、ということでしょう。

教科書にしてもそうですが、たとえば最近では各種テレビ番組などで、
歴史に関して「ほんとうの○○は~」「実は○○は△△だった」といったような情報が垂れ流されています。
で、家族その他、身近な人たちから、「これってほんまなん?」としばしば聞かれるわけですが、
「さあ」とか、あまり木で鼻をくくったような返事をするのは人間関係上とても問題があるので(笑)、
もとネタが分かる時には、「とりあえず、そういう風に書いてあるよ。」と返事するようにしています。
ほんとうの」とか「実は」とか言ってみたところで、歴史学でそう言った場合の内実は、
記録にはそう書かれています」という話でしかないことは、分かっておいた方がいいと思うわけです。

情報メディアの特性を理解し、情報を批判的に読み解き活用する力を「メディアリテラシー」と呼びますけど、
言うなれば「歴史リテラシー」のすすめ、みたいなもんですね。

ただまあ、実際に研究者が歴史のことを語るときに、いちいち
「○○にはこう書いてあり、事実かどうか判定のしようはないけれど、とりあえず史実として話を進めます。」
なんて書くと、書いてる方も読んでる方も、しんどくて仕方ありません(笑)。
というわけで、少なくとも私の書くものについては、
「○○にこう書いてあるので、これこれということがわかる」
という書き方をしている時には、
「事実かどうか判定のしようはないけれど、とりあえず史実として話を進めてるんだ」
という暗黙の了解で読んでいただけるとありがたいなあ、と思うわけです。

で、じゃあ、そうやって作り出される「歴史」にどんな使い道があるのか?などについては、また別記事で。
それともう一つ、もちろん歴史学でも、「文字で書かれたものは何でも「史実」」なんて言い出したら
収拾が付かないわけで、その辺の折り合いを付ける作業が「史料操作」です。
この作業の内包する問題についても、また別記事で。


(以下、独り言みたいなもんです。)
実のところ、こういう方法論的限界の話は、研究者への影響の方が大きいのではないかと思います。
たとえば、文献史学では上記のような手続きで文献史学的「歴史」を描き出すわけですが、
全く違う対象から違う方法で過去にアプローチした結果である
考古学的「歴史」、美術史学的「歴史」、建築史学的「歴史」が、文献史学的「歴史」と異なるものであっても、
それはある意味当然で、いっこうに構わないだろうと思うわけです。
正直なところ、いかなるアプローチをもってしても唯一絶対の「過去の真実」なんてものに
たどり着くことはありえないのですから、それぞれの結果を比較して真実比べをしても無益でしょう。
まあそれだったら、むしろそれぞれ結果のズレの意味を考える方が、きっと建設的ですよね。
(もちろん、文献・考古・建築の知見がキレイに揃うようなありがたい事例については、
 それこそ骨までしゃぶるように調べつくすことが必要だとは思います)

他分野との協業に関して、文献史学が「真実」を追求しているかのように言うことの弊害を一番感じるのは、
やっぱり国文学との学際研究でしょう。
文献史学の人間が「真実」を持ち出すたびに、国文の人たちがムッとするのを感じると言うか…(笑)。
双方の研究者が、「史実」≠「真実」であることは前提にして話をしてますよ、という了解事項を、
暗黙の了解事項として持った上で、方法論と問題意識の違いを前提として認めておくことが、
お互いの精神衛生上よろしいのではないかと思うのですが。


それにしても、今回は文章がまとまらなかったなあ…。