御霊神社(鎌倉ママチャリ縦横無尽・その3)。

さて、長谷観音から南西に少し行ったところにあるのが御霊神社。

京都で御霊神社といえば上御霊神社下御霊神社のことですが、それとは全然別系統。
京都の御霊神社は、政治上の争いが原因で横死し怨霊となった人々の霊を慰めるためのもので、
863(貞観5)年に神泉苑御霊会で崇道天皇早良親王)・伊予親王・藤原夫人(伊予親王の母藤原吉子)・
観察使(藤原仲成)・橘逸勢・文屋宮田麻呂を祀ったのがそのはじまりと言われています。
現在の祭神は、上御霊神社崇道天皇・井上皇后他戸親王の母)・他戸親王・藤原大夫神(藤原広嗣)・
橘大夫(橘逸勢)・文大夫(文屋宮田麻呂)・火雷神菅原道真)・吉備大臣(吉備真備)、
下御霊神社が吉備聖霊吉備真備)・崇道天皇伊予親王・藤原大夫人・藤原大夫(藤原広嗣)・
橘大夫(橘逸勢)・文大夫(文屋宮田麻呂)・火雷天神菅原道真)です。

これに対して、鎌倉の御霊神社は祖先崇拝のための神社。
平安中期以降、鎌倉の近辺は鎌倉党と呼ばれる桓武平氏の一流の勢力圏内で、
鎌倉党は大庭・梶原・長尾・村岡・鎌倉という枝分かれした五つの系統で構成されていました。
で、五家の祖先=「五霊」を祀っていたのだけれど、その中で一番有名な鎌倉権五郎景政
(後三年合戦で矢が目に刺さり、矢を抜こうと同輩が顔を土足で踏んだら激怒した、という人)
一人が祀られるようになって、「五霊」=「御霊」になった、と。
…まあ命名譚なんてそんなもんです。深く考えてはいけません(笑)。

個人的な話ですが、以前『吾妻鏡』の研究会で「御霊社が鳴動したので大庭景能が源頼朝に報告した」
という記事が出てきたので(文治元(1185)年8月27日条)、
今度鎌倉に行ったら行ってみようと思ってたんですよ。

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お分かりいただけるかと思いますが、鳥居のすぐ手前が江ノ電の踏切です。
京都の嵐電叡電もたいがい住宅地のど真ん中を通ってますけど、江ノ電もいい勝負ですね~。
神社自体は、山すそに建つこじんまりとしたふつうのお宮です。
…うん、鎌倉時代に特に思い入れのない人はパスしてもいいスポットかも。
僕はけっこう思い入れがある方だからあれですけど。

僕が行ったのは9月14日でしたが、4日後なら「面掛行列」という行事が見られたんですね~。
惜しい。