義の通し方・その2。

以下、ほとんどひとり言に近い話です(ブログの記事なんて、どだいそんなもんです)。

今日は塾で授業でした。
先月までは水・木・金の3日間が授業日だったんですが、
委員会の仕事が隔週の金曜日の夜に入るので、金曜日の分5時間(2クラス)を火曜日に移したんですね。
(火曜日は日本史研の部会の開催日なので、その点はちょっと申し訳ない)

よろず授業時間割というものは、先生の都合だけでは決められず、
生徒・教室配分の都合というものが関わってくるので、年度途中での変更というのはなかなか大変です。
今回も、受講生全員の保護者にあらかじめ電話で相談して了解を得、
それから文書で再度通知して…と手間がかかったのですが、
塾に「かくかくの事情で、申し訳ないのですが時間割変更をお願いしたいのですが」と伝えると、
「そういうことなら仕方ないよね」と二つ返事で了承してもらい、
事務的なことも一切お任せでやってもらえました。ありがたいことです。
うちの塾は、こういうところで嫌な顔一つせず対応してくれるのと、
授業以外の事務作業や時間的拘束ほぼまったくないのが本当に良くて、
金銭的には「悪くはない」ぐらいだと思うんですが、他所に行く気にはなれないなと思います。
もちろん、こちらも塾の要望には極力応じるようにして、信頼してもらえるように努力はしていますが。

学会の仕事に対する考え方としては、
「研究の世界で生きるからには、仕事はそれぞれが平等に負担するべきだ」というのと、
「それぞれの事情があるんだから、仕事はできる人がやるべきだ」という
2通りがあるのではないかと思います。
なんちゅうか、税金の負担の仕方についての議論に通じるところがありますね(笑)。
どちらか一方ということではなくて、きっと大事なのは双方のバランスなのでしょう。
僕だって、時には「なんでおればっかり」と思うことがないでもないですが、
基本的には「恵まれている人間は人並み以上に仕事をするべきだろう」と考えています。
正確には、「自分は人より恵まれた環境にいるから、人より仕事をするべきだろう」と。
他人にこの行動原理を押し付けるつもりはありません。

多分、僕は客観的・絶対的には恵まれていないのですが(オーバードクターなんてみんなそうだ)、
主観的・相対的に見れば、自分は恵まれている方だと思っています。
一つには、上記のように、勤め先の塾が「研究が主・塾が従」というスタンスに理解を示してくれること、
もう一つは、家族が自分の現状を黙認してくれていることです。
定職には就けないし、生活リズムは不規則だし、しょっちゅうあちこちに飛び回ってるし、
普段仕事してるようには見えないし(文系の研究はおよそ「仕事」には見えないことが多い)
…という今の僕の生活に対して、両親は基本的には不干渉ですし、「とっとと出て行け」とも言われません。
両親の「好意的中立」という態度がどれだけありがたいものか、同業のみなさまにはご理解いただけるでしょう。
現状がいつまでも持続できるものでないことは百も承知ですが、この先数年ならまあ何とかなるか、と。

確かに大変だし、何事もそれを理由に断ることは可能なのかもしれません。
ですが、やろうと思えばできる状況で、もっと大変な状況にいる他人にツケを回して、
それで自分の研究をするというのは、自分の生き方ではないな、と思います。
どちらかというと、もうプライドとか見栄とか格好つけに類する話だと思いますけど、それでも。


まああの、「自分を鼓舞するためのひとり言なんだ」と思って、許してやって下さい。


…正直に言えば、「お金にならない仕事もちゃんとやるから、お金になる仕事も回ってこないかな」
とは思わないでもないです、はい(笑)。