白旗神社・源頼朝墓(鎌倉ママチャリ縦横無尽 その11)。

さて、大江広元らの墓から少し西に行くとあるのが、白旗神社
「もうひとつの白旗神社」と言うべきか。一つ目の方は、もうすでに紹介した鶴岡八幡宮の摂社です。

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こちらはもともと源頼朝の持仏堂があった場所で、頼朝の死後に墓所として法華堂とされました。
1247年の宝治合戦の際には、三浦一族等がこの法華堂に立て篭もり自害しました。
神社とされたのは明治時代に入ってからで、祭神はもちろん源頼朝です。


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白旗神社の上の方には、源頼朝の墓があります。
墓といっても、江戸時代に島津氏が新たに建てたものですが。
島津氏が先祖の忠久を「源頼朝落胤」と称していた…という話は、前回も書きました。

ところで、現代ではこんなこともされてるんですね~。

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「…生きて再会してたら、そのうち粛清されてたかも」とか言っちゃダメかな(苦笑)。
でも、頼朝だったらきっとそうしてると思うな。

ちなみに、こんな「源頼朝公顕彰碑」も建てられているのですが。

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「時の朝政を恣しいままにしてきた公家衆」って…。
そんなにまで言われるような実権を、当時の貴族が持っていたとは思えませんが。
それに、「民百姓の生命財産を保証する」なんてことを、
頼朝がしたとも思わないし、そもそもしようとしたとも思えないのですが。
(というか、頼朝に限らず、当時の為政者にそんな発想は観念的にしかなかっただろう)
収奪する人間が貴族だろうと武士だろうと、収奪される側にしたら別に違いはないでしょう…
という発想が権門体制論(笑)。
まあなんにせよ、どうしてこうも自然と「貴族は悪、武士は善」だと思うんでしょうね。
個人的には、暴力の行使が少ないだけ貴族の方がマシちゃうか、と思うのですが。