知識=思考力。

ちまたで話題の「偽計業務妨害容疑」のお話は、
まあカンニング刑事罰の対象にするのは非常に難しいと思うのですが、
結局のところ、目的は刑事罰を下すことそのものというよりも、
警察に動いてもらって実行者を特定することなんでしょうね。
大学が直接プロバイダとかに情報開示を請求しても、
個人情報保護の観点から開示はしてもらえないでしょうし、
刑事罰の対象にしないと、警察は動いてくれませんから。

さてそれで、ここぞとばかりに
「暗記偏重・テスト重視の現行の入試システムは問題だ!」という声が聞こえてきています。
とりあえず、「暗記偏重」という点について、今回の件に関してこういうことを言う人は、
きっと京大の入試問題を見たことないんだろうなーというのが第一の感想です。
国語は設問文が3題あって、設問文ごとに字数無制限の記述問題が5問あるだけ、
数学は記述式の問題が5問あるだけ、英語は長文2題からの英訳と英作文が2題あるだけ。
これで思考力と読解力を問うていないんだったら、いったい何を問うていると言うんでしょう。
(ついでに言うと、こういう出題形式だからこそ、
今回のようなカンニングが成功すればうま味が大きいのです。)

個別の入試の問題は置いておいて、現行の入試制度全体について言えば、
要するに「知識を問うことに意味はあるのか」という話になります。
正直な感想を言えば、暗記偏重の問題を声高に叫ぶ人というのは、
きっと本人がそういう勉強の仕方をしてきたんだろうなーと思うのですが。

きちんと勉強の仕方を知っている人なら、絶対に「丸暗記」はしません。
丸暗記とはつまり、「知識を一対一対応で覚える勉強の仕方」です。
これが非常に効率が悪いという話は以前にも書いたので、よろしければそちらを御覧下さい。
結論だけ言えば、「物を効率的に覚える」作業には必ず「体系化」と「一般化」がともなうし、
「覚えた知識を活用する」ためには、必ず物を考える必要がある、
「知識重視」の教育でだって十分に論理的思考力というのは身につくし、
それは教育内容の問題ではなく、教え手と受け手の発想の問題である、という話です。
付け加えておくと、知識を問う問題であっても、設問の内容が理解できなければ解答はできないし、
誤答の原因は設問が理解出来ていないことにあるということもよくあります。
算数の文章題ができない小学生は、多くは問題文が理解できていない、といったように。

それでも「知識偏重はけしからん、思考力を問うべきだ」ということであれば、
仮に、思い切ってラディカルに「思考力のみを問う入試」の形式というものを考えてみましょう。
インターネット接続可能なPCを学生に一人一台渡し、
課題を与え(たとえば「鎌倉幕府滅亡の原因について、思うところを2000字程度で述べなさい」とか)、
何時間あるいは何日間かの制限時間内で成果を提出させるというのはどうでしょう。
実のところ、個人的にはこういう入試をやる大学が出てきても良いのではないかと思っているのですが。
本当は「図書館の中ですべての蔵書を利用可能とし」という条件を付け加えたいのですが、
そうすると「一冊の本を複数の人間が同時に使用できない」という制約が生じてしまうので、
条件の平等性が確保されなくなってしまいます。

「ネット上の情報なんて正しいかどうか判別できないからけしからん」という意見は、
この際は特に無視して構いません。だって一般的な意味での「正解」はないのですから。
要するに、評価項目は「日本語として論理の筋が通っているかどうか」というだけの話です。
逆に言うと、「短答問題ではなく論述問題のみにする」というのは無意味な行為です。
だって、結局のところ「正解」を用意しているのですから。
そんなものは、受験生の記憶の必要量が増えるだけです。
どうしても情報の誤りが気になるということであれば、
アクセスできる対象をあらかじめジャパン・ナレッジ等の
インターネット接続可能な学術情報に限定しておいてもいいでしょう。
(「掲示板等で相談」などの問題点についても同様)
ついでに言うと、「コピペ」の問題も、実はあまり気にする必要はありません。
これは経験上わかるのですが、ネット上の情報をツギハギしたりコピペしたりすると、
文字数制限で問題が生じてくるので、すぐにわかるものです。
この場合、課題が限定されているのですから、出題側があらかじめネット上の情報を調べておくことも可能です。

さて、そのように「思考力を問う」形式で試験を課したとして、
知識による差は出ないかといえば、もちろん出ます。
当然ですよね、考えるためには知識が必要なのですから。
上のような例題を出した場合、極端に言えば、
鎌倉幕府についての基礎知識を持っている人は、持っていない人よりはるかに有利でしょう。
そういう条件差を極力排するために、「誰も基礎知識を持たないようなことについて論じる」
という課題を出すことはもちろん可能ですが、その結果が思考力を反映したものかどうかははなはだ疑問です。

計算も情報検索もコンピューターがしてくれる時代に、人間が知識を得ることの意味は何かと言えば、
つまりそれは思考の土台や枠組みになるものを作るということです。
なにかこう、「知ること」と「考えること」とを分けるような考え方とはおさらばした方が良いと思うんですよね。
実際問題として、知ることは考えることであり、考えることは知ることなのですから。