祇園祭でアルバイト(5日目 神幸祭)

遅くなりましたが、日曜日の神幸祭の実況と感想を。
4時に本殿西に集合なのですが…とにかくすごい人。かき分けかき分け進みます。
で、集合したら装束に着替えます。装束は葵祭に引き続き白丁でした。
白袴・白水干・黒烏帽子です。今回は足袋が付きませんでした。
一度葵祭で経験しているので、なんとなく装束を着るのもスムーズです。

神幸祭の行列は、基本的に神宝+神輿三座で構成されています(+αアリ)。
で、神宝を持つのは宮本組という氏子組織の人々なのですが、
その横で神宝を守るために朱傘を差し掛けるのがバイト君の役目です。
この傘が結構重い…重いものを、タテに握って持つというのは案外な重労働でした。

さて、行列のコースですが、神宝の列のルートは
四条→縄手→三条→木屋町→二条→寺町→三条→河原町→四条→(四条寺町で折り返し)→石段下
という感じでした。結構グネグネと折れ曲がります。
神輿も、ゴールは四条寺町の御旅所で同じなのですが、途中の経路は全然違います。
(こちらをご覧下さい http://web.kyoto-inet.or.jp/org/yasaka/mikosi.html )

ちなみに、還幸祭のルートはもっとややっこしい上に、はるか遠くまで行くことになります。
神宝(私が付いていたのはお琴でした)を持っていた宮本組の人とお話していたら、
還幸祭ではどういうルートなんですか?」
「三条堀川で休憩して帰ってくるよ。」
三条堀川か~……って、ええっ、三条堀川!?
普通に八坂神社から歩いても40分くらい片道かかるんですけど…。

さて、何でそんな長いルートをグネグネと歩くかというと、
「氏子がみんな自分のところを神様に回ってほしいと言うから」だそうです。
だから、行列している人は「回ってやっている」立場なので、結構偉そうに回っているらしいです(笑)。
ただ一ヶ所、全員が頭を下げるのが、烏丸高辻の大政所御旅所。
これは現在の御旅所に移る前の旧御旅所で、
天正十九(一五九一)年に豊臣秀吉によって移転。本来はここと冷泉東洞院の二ヶ所)
何で頭を下げるかというと、大政所(秀吉の母)が多額の寄付を行ったからだそうです。
スポンサーにはきちんと頭を下げましょう、ということですね(笑)。

で、この行列で神宝を運んでいる人たちは、みなさん宮本組といって、
いわゆる祇園のあたりに住んでいる方々です。お宮の近辺だから「宮本」。
これに対して、神輿を担いでいる人たちは、もっと荒っぽい人たちだそうです。
(確かに、体が綺麗過ぎてサウナとかには行けない人がたくさん…)
それで、どのような仕組みで行列が構成されているかというと、
宮本組の人たちがあいだに入って、神輿を担ぐ人たちにお金を出して、
神輿を担いでもらう、というしきたりなのだとか。いろいろあるんですね。

んでもって、この行列の先頭は宮本組の神宝列なわけですが(こっちのが実は神輿より偉い扱い)、
その一番前には、円融天皇の勅が書かれた板が進みます。
(どんな勅かは言われませんでしたが、多分天禄元(九七〇)年に例年の祭になった時の勅だと思います)
要するに、何か悶着があったときには、「うちはお上に言われてやってるんだ」ということなのだとか。
実際、何か揉め事があると宮本組の人たちはそういう言い方で相手に譲ってもらうそうです。
確かに、京都でそう言われちゃしょうがないですよね(笑)。

とまあ、こんな話は、全て宮本組の人が聞かせてくれました。
うーん、いい人の横に当ったなあ。いろいろ知れてよかったです。