権門都市宇治。

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昨日は宇治に発掘現場見学に行ってきました。
最近宇治市では再開発にともなう発掘調査が積極的に行われていて、
平安時代後期の遺構が続々出てきています。

もともと宇治は平安京平城京を結ぶ奈良街道沿いの要衝で、
そのことは宇治橋がたびたび合戦の舞台となったりしたことからもわかります。
(以前にも書きましたが、昭和十六年に干拓された巨椋池が存在したので、
 近代以前は現在の近鉄京都線のルートは存在しませんでした。
 基本ルートは、現在のJR奈良線・国道24号線)
で、宇治には平安初期から天皇や貴族の別荘が置かれ、狩猟などが行われていたのですが、
道長期以降は摂関家とのつながりが強化され、摂関家の権門都市の様相を呈します。
平等院はその象徴なわけですが、都市としての整備は、平等院を建てた頼通のひ孫である忠実によって
院政期に行われたと考えられています(詳しくは元木泰雄藤原忠実』参照)。

それで、昨日見てきた遺構の意義についてですが、とりあえず遺構の発掘を紹介する記事を挙げておきます。
「関白・藤原頼通の別荘跡か 宇治市街遺跡 大型木製井戸も」(京都新聞
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050920-00000033-kyt-l26
「平安貴族の暮らしに思いはせ 「宇治市街遺跡」説明会に400人」(京都新聞
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050920-00000033-kyt-l26
宇治市の歴史資料館の正式な発表があればよかったんですけど、
宇治市の歴史資料館にはそもそもHPがないのかな…?
まさか昨日の現地説明会の資料を載せるわけにもいかないので、隔靴掻痒な紹介になりますが。
(基本的に、以下の内容は宇治市歴史資料館の発表によるものです。)

まず、これまで平安期の宇治周辺の状況がどのように考えられてきていたかというと、
宇治橋から平等院までの一帯に、邸宅などが固まっていたと考えられていました。
これだとだいたい、南北方向が400m程度になります。で、東西方向の幅はあまりなし。
ところが、二〇〇二年に平等院から東へ2kmほど離れた地点(宇治郵便局のあたり)で
発掘調査が行われ、貴族の邸宅跡と想定される院政期の遺構が検出されました(矢落遺跡)。
これにより、院政期の宇治の都市域は東西2kmもの範囲にわたっていたのではないかと想定されたわけです。
で、今回発掘によって出土した遺構はどこに位置するかというと、宇治橋よりもさらに北、
平等院からは北に約700mの地点であり、かつての巨椋池南岸の想定地付近です。
というわけで、今回の発掘調査により、院政期の宇治の都市域は南北700mにわたっており、
巨椋池南岸にまで広がっていたのではないか、と想定されるようになったわけです。

つまり、院政期の宇治の市街域は、東西2km、南北700mに及ぶものだったと想定されるわけです。
これは同時期の白河・鳥羽をしのぎ、鎌倉(鶴岡~海岸線でだいたい東西2km、南北1キロメートル)・
平泉(中尊寺の山域を除くとだいたい東西2km、南北1キロメートル)に匹敵します。
そう考えると、すごい規模ですよね。

来シーズンは院政期の宇治に関係する共同研究に一枚噛むことになっているのですが、
その前に早速、宇治のすごさを再認識させてもらった感じです。
今まで摂関家のことはあまり見てこなかったのですが、
(だって、摂関家ぐらいメジャーだと、僕が研究しなくても他の人が研究してくれるし。
 もっとマイナーな存在の方が、私のマニア心をくすぐります 笑)、
これからはもっときちんと向き合わなきゃなあと思いました。

あ~、久々に真面目な記事を書いたら肩凝った(笑)。