歴史学の「限界」について。

(はじめに、ここでいう「歴史学」=「文献史学」だ、という点についてはコチラをご覧下さい。
 ちなみに、バックナンバーは以下の通りです。
 歴史学って何ですか?(一部改訂)
 歴史の教科書はなぜ「絶対」ではないか。

歴史学を専門にしている人間にしては、のっけからえらく否定的なタイトルに見えるかも(笑)。
「限界」という言葉を、別に否定的なニュアンスで考えているわけではありません。
たとえば、ガンの特効薬が風邪に効かないからって、ケチが付くわけじゃありませんよね。
歴史学の存在意義を考えるためには、歴史学でできること・できないことについて、
考えておく必要があるだろうと思うんです。

さてそれで、まずは前回の話の続きから。
「通説」が絶対じゃないのは当たり前だけど、「史実」だって絶対の正解ではない』、
ということについてです。

まず一つには、単純に、「一つの事柄について、複数の文献資料(史料)が残っている場合
を考えてもらうといいんですが。
すべての史料の内容が一致しててくれるといいんですけど、
内容が食い違っていることだって、当然あります。
そういうときには、何らかの方法で「こっちを正解にします!」と決めなくちゃいけなくなるわけです。
(何をもって歴史学的「正解」とするか、という話は、後述します。)
で、それにたいして「いやいや、こっちが正解でしょう。」と異論が出る場合だってあるし、
その結果、史料の選択が変われば、それによって確定される「史実」も変わってしまいます。

また、今まで知られていなかった史料が新しく発見されることで、
それまで「正解」とされてきた史料がその座を追われることもあります。
たとえば最近、源頼朝征夷大将軍就任を巡る新史料が紹介されました。
かつて、頼朝の将軍就任については、『吾妻鏡』の記述をもとに、
「頼朝はずっと征夷大将軍になりたかったのに、後白河院のせいでなれなかったんだ。」
とされてきました。
ところが、最近、
「『大将軍』になることを頼朝が望んだので、朝廷がいくつかの選択肢から『征夷大将軍』を選んだ。」
と書かれた、当時の貴族の日記の抜粋が発見されたのです。
その結果、「後になってまとめられた『吾妻鏡』より、同時代の貴族の日記の方を優先しよう。」
ということになり、学説も書き換えられつつあります。
(詳細が知りたい方は、櫻井陽子「頼朝の征夷大将軍任官をめぐって―三槐荒涼抜書要の翻刻と紹介―」
 (『明月記研究』九、二〇〇四年)をご覧下さい)

と、ここまでは純粋に、「史料の取り扱い方」の中での話だけなんですが、
次に、史料の持つもっと根本的な問題点について、考えてみます。

史料というものは、過去のいつかの時点で、誰かが書き残したものです。
具体的には、貴族の日記、手紙、売買の契約書、公式の命令文書、帳簿、後に編纂された歴史書、文学作品
…などなど、ありとあらゆるさまざまな「文字で書かれたもの」です。
材質も紙に限られてはいなくて、木に書かれたもの(木簡とか仏像の銘とか)、
金属に書かれたもの(刀の銘とか)、焼き物に彫られたもの、石に彫られたもの…と、多種多様。


さて、そこで。

文字で書かれた内容は、はたして「真実」なのでしょうか?

たとえば、先ほどの源頼朝征夷大将軍就任の記事について考えてみてください。
「『吾妻鏡』の記事は間違いで、貴族の日記の抜き書きが正しい。」というのは、本当でしょうか?

「そうではない可能性がある」のは、確実です。
まず単純に、「内容が食い違う史料が、将来見つかる」という可能性を否定することは不可能です。
そうでなくても、意図的な嘘が書かれている可能性は?
筆者の思い違いである可能性は?
筆者の得た情報が実はまちがいだった可能性は?
少なくとも、文字で書かれた情報は、すべて「筆者の主観」というフィルターを一度通っていることは
確実ですし、その際にどれだけ情報に歪みが生じているかは、測定のしようがありません。

何より、最大の問題点は、
そこに書かれた内容がもし真実だったとしても、それが真実であると証明する方法はない
ということです。
だからこそ、上でズラズラ書いたような反証可能性が、絶対に否定できずに残るわけで。

結局、「文字に書かれたことを真実と証明できない」以上、
文字から真実にたどりつくことは事実上不可能だ」ということになります。

これが、「歴史学の根本的限界」その一です。
ここまでは、歴史学の研究者のあいだでの共通認識です。
…といいたいところですが、きっとそうではないという確信があります(笑)。
多分、まだまだ先鋭的な考え方、ということになるんですかね。
まあ、自分だってこういう考え方に行き着いたのは最近ですから。
もちろん、僕だって他分野の発想の受け売りですし。

何より大事なのは、そう認識することではなくて、その先の話です。
はっきり言えば、「歴史学では過去の真実を明らかにできません」と言ってるってことですから。
これはある意味で究極の自己否定なので、それですむ話じゃなくて、
「じゃあ、歴史学はなんのための学問なんですか?」ということを言わなきゃいけませんよね。
これについては、共通認識でもなんでもなくて、もうはっきり僕の私見になりますが
(決して僕一人の意見ではないことも確実ですが)、次に書いてみたいと思います。