物の見方。

例によって独り言ですが、何となくこの間から、自分の中で疑問がもやもやっとしていたので。

下のほうの記事につけたコメントでですね、
 カッコよかったのは「由良之助の役どころ」というよりは「高岸さん個人」である。
 それはベジャールの描こうとした不条理劇の筋立てとはかみ合わない、
 むしろバッティングするものかもしれない。
 ただ、歌舞伎という様式をバレエの中に取り入れた結果としての
 様式美には合致するものだったんじゃないのかなあ、というそういうことです。
 それはある意味ストーリーとは無縁なカッコよさ(というか、ある意味有害かも…)なので、
 それをわかった上で賞賛するのもどうなんだか…と思って、書きにくかったわけなんですが(苦笑)。

とまあ、こんな風に書いたわけなんですが。
そもそも本記事の方をどうしてああいう風に書いたかというと、
要は高岸さんがほんとに自分にはカッコよく見えちゃったわけで、それを正直に書いてみたわけです。
で、じゃあなんで高岸さんがカッコよく見えたんだろう、というか、それがプラス評価に見えたんだろう、
とあれこれ考えてたんですが(だって、本人は不条理劇として見てたつもりだったので)。

で、思うに、これは意識した結果ではなくて、無意識の作用ではないかと思うんですが、
どうも「ベジャールの作品として読み解こう」とするよりは、
「歌舞伎という様式をベジャールがどう使っているか」のほうに関心が多く向いていたのかなあ、と。
ストーリーそっちのけだとは言いませんが、
どっちかというと「入れ物」というか、外面の方に意識が向いてたんですかねえ。
なんか不本意…。

考えてみると、ストーリというものは筋立て自体は変わらなくても、
キャラクターそれぞれの感情の動きや、各キャラクターごとの感情の組み合わせで、
見え方ががらりと変わってしまうわけで、きっとそこが古典劇の面白さでもありますよね。
見る側・演じる側・演出する側の全ての人にとって。
そういった部分をもっと追っていけるようになりたいなあと思う今日この頃です。