西美濃紀行(その1)。
さて、先週の木曜日は塾が年度替りでうまい具合に休みだったので、岐阜県をいろいろと歩いてきました。
具体的には、岐阜県の大垣市・垂井町・関ヶ原町です。
とりあえず、あまりにもたくさんの史跡を回ったので、何度かに分けてということで。
交通の要衝ということもあってか、とにかくこの地域はかなり史跡が多いんですよね。
今回ほぼ丸一日動き回ってたんですが、これでもかなり端折ってます。
大垣でも大垣城とか墨俣とかは省いちゃってますしね。
具体的には、岐阜県の大垣市・垂井町・関ヶ原町です。
とりあえず、あまりにもたくさんの史跡を回ったので、何度かに分けてということで。
交通の要衝ということもあってか、とにかくこの地域はかなり史跡が多いんですよね。
今回ほぼ丸一日動き回ってたんですが、これでもかなり端折ってます。
大垣でも大垣城とか墨俣とかは省いちゃってますしね。
さて、京都駅を朝9時前に出発して、東海道線で大垣に10時過ぎに到着。
大垣で乗り換えて、まずは美濃赤坂に向かいます。
大垣―美濃赤坂間も東海道線の一部なんですが、枝分かれした2駅分だけの支線です。
というわけで、東海道線の電車なのに、たったの2両編成。
大垣で乗り換えて、まずは美濃赤坂に向かいます。
大垣―美濃赤坂間も東海道線の一部なんですが、枝分かれした2駅分だけの支線です。
というわけで、東海道線の電車なのに、たったの2両編成。
ここが本陣跡。
他にもいろいろ史跡はあるのですが、本来の目的ではないのでここでは省略。
あと、最初は一駅手前の荒尾で降りて御首神社
(平将門の首が平安京から東国に飛んでいく途中、南宮大社の隼人に射落とされた場所という伝承の地)
に行く予定だったのですが、伝承が形成されるのがどうも近世らしいので今回はパスしました。
何せここで荒尾で降りちゃうと、次の電車を数時間待つか余計に歩くか、ということになってしまうので。
行ってみたかったんですけどね。
それにしても、近世にボコボコできてくる新しい伝承と地誌との関係というのは面白そうですね。
自分でヤル気にはならないんですけど(苦笑)、人の話を聞くのは面白いです。
あと、最初は一駅手前の荒尾で降りて御首神社
(平将門の首が平安京から東国に飛んでいく途中、南宮大社の隼人に射落とされた場所という伝承の地)
に行く予定だったのですが、伝承が形成されるのがどうも近世らしいので今回はパスしました。
何せここで荒尾で降りちゃうと、次の電車を数時間待つか余計に歩くか、ということになってしまうので。
行ってみたかったんですけどね。
それにしても、近世にボコボコできてくる新しい伝承と地誌との関係というのは面白そうですね。
自分でヤル気にはならないんですけど(苦笑)、人の話を聞くのは面白いです。
さて、赤坂の宿を抜けて、向かった先は子安神社。
子安神社自体は全国にいろいろありますが(祭神は神功皇后)、神社自体が目的地ではなくて、
お目当ては「子安の森」です。
平治の乱で敗北した源義朝一行がこの地で襲撃を受けた際、
家人である源重成が身代わりとなって自害した場所と伝えられています。
とはいえ、行ってはみたけど、どこが「森」なんだかわからない感じでした。
まばらに木はあるんですけどね。
お目当ては「子安の森」です。
平治の乱で敗北した源義朝一行がこの地で襲撃を受けた際、
家人である源重成が身代わりとなって自害した場所と伝えられています。
とはいえ、行ってはみたけど、どこが「森」なんだかわからない感じでした。
まばらに木はあるんですけどね。
さて、ここからさらに西へどんどこ歩いていくと、青墓宿の故地に着きます。
青墓宿は東山道の宿で、中世後期に赤坂宿と入れ替わりの形で廃れてしまって近世には残らないんですが、
古代・中世では、遊女がたくさんいて、しかも遊女の長者が源義朝との間に娘をもうけていたり、
遊女の一人延寿は後白河院の今様の師匠になったりということで、非常に有名な宿です。
青墓宿は東山道の宿で、中世後期に赤坂宿と入れ替わりの形で廃れてしまって近世には残らないんですが、
古代・中世では、遊女がたくさんいて、しかも遊女の長者が源義朝との間に娘をもうけていたり、
遊女の一人延寿は後白河院の今様の師匠になったりということで、非常に有名な宿です。
他に青墓には照手姫(謡曲『小栗判官』のヒロイン)に関する伝承が残っていて、
小篠塚(照手姫墓との伝承)・照手姫水汲井戸などがあります。
「他に」というか、「照手姫が青墓の長者に遊女として売られて」というお話なのですが。
小篠塚(照手姫墓との伝承)・照手姫水汲井戸などがあります。
「他に」というか、「照手姫が青墓の長者に遊女として売られて」というお話なのですが。
んで、お次は「よしたけあん」です。
源義経が奥州へ下る際に、青墓を訪れて兄朝長(この人のことは後述)の菩提を弔ったのですが、
その時に地面に葦の杖を刺して「さしおくも 形見となれや 後の世に 源氏栄えば よし竹となれ」
と詠んだところ、その葦が生長して竹になったことから、
ここにあった寺が「よしたけあん」と呼ばれるようになった、という伝承が残っています。
源義経が奥州へ下る際に、青墓を訪れて兄朝長(この人のことは後述)の菩提を弔ったのですが、
その時に地面に葦の杖を刺して「さしおくも 形見となれや 後の世に 源氏栄えば よし竹となれ」
と詠んだところ、その葦が生長して竹になったことから、
ここにあった寺が「よしたけあん」と呼ばれるようになった、という伝承が残っています。
(ほんとは中山道の宿じゃないんですけどね)
まだメインの目的地には着いてないんですが、続きます。