エリザベート 愛と死の輪舞曲@宝塚歌劇団雪組。

エリザベート 愛と死の輪舞曲@宝塚歌劇団雪組 宝塚歌劇場大ホール 6月12日

トート:水夏希
エリザベート白羽ゆり
ゾフィー:未来優希
フランツ・ヨーゼフ:彩吹真央
ルイジ・ルキーニ:音月桂
ルドルフ:凰稀かなめ

というわけで、堪能してきました初タカラヅカ
ま、原曲がある作品だったので、あんまりヅカヅカしくない演目だったのかもしれません。
でも、最後のフィナーレだけで、もうじゅーぶん堪能させていただきました(笑)。
最後の最後、主要キャストが歌いながら大階段を降りてくるところは、
カーテンコールとして非常に優れたシステムだな、と。
ミュージカルとかってアンコールがないですけど、
これならお気に入りの役者さんのソロが最後にちゃんと聞けるわけで。
でも、フィナーレの最初でいきなりのド派手なラインダンスには、正直度肝を抜かれました(笑)。

あと、本編で「ああ、ヅカなんだなー」と思ったのが、
フランツとエリザベートの結婚式のあとのトート&ダンサーズの踊り。
あまりの腰の入り具合にびっくりです。とにかく「クイクイ」と押す押す(笑)。
あれはいったいどこから来た振りなんだろう?

さて、4月に見たウィーン版との比較ですが(ウィーン版詳細はコチラをどうぞ)。
主な相違点として、
1)ハプスブルク家の死者のお歴々が、オープニングのルキーニの裁判で登場
(それぞれの詳細は出ないが、コーラスに被さってルドルフのソロがある)
2)エリザベートの転落事故のあと、トートがエリザベートを見初める
3)ゾフィーは「皇太后」であるというより「姑」である
4)オーストリアナショナリズム高揚ではなく、ハンガリー独立運動の高揚が語られる
という4つが指摘できるかと。
ほかにもまあ、「フランツの不貞が知れるきっかけが、ルキーニが撮影した写真である」
(きっと性病というのは宝塚的にはNGなんだろな 笑)
とか、細かい相違はいろいろありますが。

1)はウィーン版では、エピローグ直前に「沈みゆく世界の一角で」として詳しく語られ、
エリザベートの死はハプスブルク王朝崩壊の一環として位置づけられるわけですが、
宝塚版ではそうした設定がない、ということになります。
ウィーン版ではハプスブルク王朝崩壊は常識ともいえる自国史ですけれど、
日本人にとってはそうではないから、ある意味当然とも言えます。
とはいえ、バックボーンが違えば、当然受容されるべきストーリーも変容をきたすことになりますね。

2)は、ウィーン版だと初めからエリザベート⇔トート(つまり相思相愛)なんですけど、
宝塚版だと割とトート⇒エリザベート(つまりトートの片思い)な感じ。
ベクトルが全然違うんですよね。
で、最後にエリザベートがトートの側を向いてエンド、と。
「ああ、これってトートとエリザベートのラブストーリーなんだな~」と思って見てました。

3)は、ウィーン版のゾフィーは、個人としての人格よりも、権威とか秩序とか儀礼とか、
悪く言えば抑圧的な、擁護すれば社会維持のために存在する、枠組みみたいなものを体現する存在でした。
そこには彼女なりの正義や守るべきものがあったわけです。
が、宝塚版だと、ゾフィーはあくまで姑さんの域を出ない存在であり、
ハプスブルク王朝という旧制度というよりは、「結婚という名の社会的抑圧」という位置付けです。
(そしてエリザベートは「結婚という名のくびきを自らの力で脱し自由になった存在」)
で、フランツ=ゾフィーなので、フランツ=「結婚という名の社会的抑圧」という構造になる、と。
(要するに「物分りの悪い旦那」ってことか? 苦笑)

こうなると、ウィーン版では「いい奴なのに、皇帝だったばかりに…不憫なフランツ(涙)」
となるのですが、宝塚版のフランツは、どうも免罪してやる気が起こりません。
というわけで、二人の最後のすれ違いを描いた「夜のボート」を、
「そりゃーうまく行くわけないよね」という、ちょっと覚めた目で見てしまうことになるのでした。
いい曲なんですけどねー、フランツがいいやつだからこそ、
エリザベートの明確な拒絶がなおさら胸に迫るわけで。
…ほんとに不憫なやつだな、フランツ(苦笑)。

4)は直接的には3)と関わるんですが、
エリザベートが「結婚という名のくびきから自らを解き放つ」ことを可能とするものが、
ハンガリー王妃としてハンガリーの民衆の心をつかむという政治的貢献であるわけです。
ここまではまあいいんですけど(結婚という「男性的」な制度からの脱出という問題を、
エリザベートもまた政治的貢献という「男性的」枠組みの中で解決した、ということになるのかな?)、
ここでお気の毒なのがルドルフでして…。
女性としてハプスブルク家(=結婚)にやってきたエリザベートが、
女性であるがゆえに(というか、男性ではないがゆえに)、限定的とはいえその枠から脱出できたのに対し、
男性として生を受けたがゆえに、ルドルフはハプスブルク家という枠の中で苦闘せざるしかなく、
母に倣ってハンガリーの王冠を手にすることでそこから脱出しようとするけれど、
あえなく失敗し、自殺に追い込まれる。
これでは、エリザベートがルドルフを理解できず突き放すのもむべなるかな。
だって、結局ルドルフはフランツやゾフィーと同じ側の人間としてエリザベートと対峙するのですから。
ウィーン版のルドルフは「両親のエゴと国家主義の高揚の中で、ツケを一身に背負わされた存在」でしたが、
宝塚版のルドルフは、「エリザベートの魂を持ち、ハプスブルク的因習に拠って生きれば破滅するしかない」
ことを証明している存在と言えるでしょう。
ハンガリーという要素を入れることで生まれたこの両者の対比が、演出の意図したものかはわかりませんが、
私にはなかなか面白く感じられました。

で、そうした前提に立った上で、宝塚版が全体としてどう見えるか。
本来の演出意図は「トートの立場から見た、トートとエリザベートの物語」なんじゃないかと思うんですが、
私には一貫して「生涯をかけて自由を追い求めたエリザベートの栄光と挫折」に見えてしまいました。
なーんかね、トートを拒絶し続けるエリザベートがみょうにカッコいいんですよ。
そして、正直に言いますけど、これなら「最後までトートを拒絶し続けるエリザベート」であってほしかった。
ルドルフが自殺して泣き崩れるのはともかく、トートに対して死を望むのが、
なんかそれまでと首尾一貫しない感じになっちゃうんですよねー。
そして、ラスト、「トートを愛するエリザベート」というのが唐突に感じられる。
(これは一緒に見た後輩もそう感じたらしいので、自分だけの感想ではないようです。)
このあたり、エリザベートのことを「それはそれでエゴだよね」という感じでちょっと突き放す
ウィーン版との相違点によってもたらされる、最終的な帰結の違いのように思いました。
全体的なストーリーは、これはこれで非常に面白かったです。

キャストは、ちょっと音質的に軽すぎるかなと思ったところはあったけれど、
エリザベートの白羽さんが一番印象に残ったかなー。
あと、ルドルフもなかなか良かったです。
フランツは役柄的にちょっと損をしている感じ(苦笑)。
トートは、個人的にはもう一押し何かがほしかった…と思いました。
それが何かは本人にも良くわかりませんが。
あと、コーラスの迫力に感動しましたね。あれはすごかったです。
それと、「生オケなんだ~!」と思いました。ぜいたく♪

まとまりきりませんが、そんな感じです。