豊国廟(本編)。

今日は日本史研究会の例会(別名「大会3日目」)でした。
さすがに3日続けて学会&懇親会でへろへろで、今日は懇親会は出ずに帰ろうかと思ったのですが、
報告者が久しぶりにお会いする先輩で、やっぱり結局懇親会まで出てしまいました。
お元気そうで何よりでした。
こういう大会とかのおおきなイベントでは、やっぱり普段お会いできない人とたくさんお話できるのがうれしいです。
うーむ、しかし充実した3日間だったなあ。

さてそれで、そういうメインの内容とは別に、合間に個人的に行った豊国廟のレポです。
「ほうこくびょう」と打ったら、「報告病」と変換されましたが。それは嫌だ~。
で、試みにヤフーの辞書検索で調べてみたら、
実は『国史大辞典』・『日本国語大辞典』で「豊国廟」は「とよくにびょう」で立項されてるんですね。びっくり。
今までずーっと間違えて覚えてたのかなあ?と思ったのですが、
平凡社の『京都市の地名』で調べてみたら、やっぱり「ほうこくびょう」で立項されてました。
うーむ、どういうことなのか。

で、京都女子大学の前のいわゆる「女坂」をさらに上まで登り、ちょっとした石段を上がると、
旧豊国神社(こちらは「とよくにじんじゃ」)の平坦な空地に出て、その先がいよいよ本格的な参道です。
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何しろ思いつきでお参りしたので、写真はすべて古いケータイで撮ってます。お見苦しい点はご容赦を。
見た感じからして長そうな石段ですが、数えたら313段でした。

で、これを登り切って、ああ着いたと思ったら、塀と門がありまして。
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門の後ろに不穏な影が見えます(笑)。
そう、門をくぐるとさらなる石段が。
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……。
数えてみたら172段ありました。
日光東照宮の奥宮(徳川家康の廟所)の石段が207段だそうなので、その倍以上になりますね。
気分的には、大津の立木観音に登ったときのことを思い出しました(こちらは約700段)。
こういう長い石段はたいてい山肌にうねうねと続いているものなんですけど、
これだけ長く真っ直ぐ登ってる石段というのは、あまり記憶にありません。

これを登り切ると、ようやく廟にたどり着きます。
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豊臣秀吉が1598年(慶長3)に死去すると、廟とともに豊国社が創建され、
1604年(慶長9)の七回忌の際には、盛大な祭礼が行われます。
(『豊国臨時祭礼図屏風』ってネットで見られるんですね!コチラ
が、その分、大阪夏の陣で豊臣家が滅ぶと、江戸幕府から徹底して押さえつけられるわけで、
荒れ果てていたのを明治になってからいろいろ整備した結果が、現在の姿ということになります。

正面はこうやって門が閉まっているんですが、脇に回るとこの状態。
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すごーくすごーくすごーーく、潜って中に入りたかったのですが、自重しました。

しかしそれにしても、久しぶりにちょっと高いところに登っただけで、ずいぶん足がくたびれました。
大会の会場に戻ってエレベーター待ちをしていたら、膝が笑ってしまったくらいです…。
筋トレしてようがなんだろうが、ちゃんと歩かないとやっぱり衰えるんですね。いかんいかん。

「眺めがいいんじゃないか」と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、
木がうっそうと茂っていて、下はちっとも見えません。こんな感じです。
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眺めは石段の下の駐車場のところがいちばんいいですね。
ちなみに、標高はこういうことだそうで。
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