古文を読むこと。

先週から塾の国語の授業で古典を扱っています。
国語を本格的に教え出したのが今年からなので、自分としても事実上初めての経験です。
で、一つ目の問題が無住の『沙石集』からの出題。

 ある人が比叡山の僧に深く帰依していて、世の中や仏道のことについて頼りにし、
 病気になれば薬についても聞いていた。
 この僧は医術の心得がなかったので、どんな病気でも「藤のこぶを煎じて飲みなさい」と教えた。
 その人がこれを信じて飲むと、病気はいつも治った。
 あるとき、その人が馬をなくして「どうしたら良いでしょう」と言ったので、
 僧は例によって「藤のこぶを煎じて飲みなさい」と言った。
 その人は納得しがたかったけれど、理由があるのだろうと信じてその通りにしたところ、
 藤のこぶをあまりにも取り尽くしてしまっていて、近くにはなかったので、
 少し遠くまで行って山のふもとの方に捜し求めて行ったところ、谷の辺りからなくした馬を見つけた。
 これも…

という文意で、「…」に入るものを最後に選ばせるのが問題。
ともあれ、まずは最初から読んで訳していくのですが、生徒はピンと来ない様子。
うんうん、そう来なくっちゃ。でないと教師の仕事がない(笑)。

 この『沙石集』っていうのは仏教にまつわる教訓話を集めてあるねん。
 今の人って、「藤のこぶを煎じて飲んだら病気が治ります」とか、
 「藤のこぶを煎じて飲んだらなくした馬が見つかります」とか言われたら、
 「なんでやねん!」て思うやろ。
 でも、この文章の中では、「これも仏様のことを信じたからからです。」っていう話になってるし、
(※問題の正解は「信のいたすところなり」)
 この『沙石集』っていうのは、そういう風に仏様の教えを信じてたらこんなにいことがありますよ~とか、
 仏様の教えを守らんかったらこんなおそろしいことになりますよ~とか、
 そういう話が一杯入ってる、言うたら仏教の宣伝みたいな本やねん。

とまあ、そんな話を。
「え~、そんなんありえへん」と言うので、昔の人にとっての宗教というのは、
今の私達にとっての宗教とはまた全然違うんだよ、とか、
大事なんは、私達がどう思うかじゃなくて、まずは「このお話の中ではそういう理屈になってる」
ということなんだよ、と。

でも結局、「ものを読む」って一面ではそういうことですよね。
現代文でも、特に随筆とか論説文て、当たり前のことが書いてあっても面白くないわけで、
一般論とは違う切り口、違う視点で物事が書かれている。
で、よくある引っ掛けの問題で、選択肢の中に「文章では書かれていない一般論」を紛れ込ませておくと、
文脈がちゃんと把握できてないままになんとなく問題を解いてる子がてきめんに引っかかる(笑)。
ま、そういうテスト云々のことはさておいても、
まずは相手(書き手)の主張の論理展開を、相手の文脈に沿ってきちんと把握するのが、
同視するにしても批判するにしても、第一歩になるわけです。
普段から現代文でもそうやって読んでいくわけですが、古文てある意味では、
「自分とものの考え方が違う人間の文章」を読むための訓練として最適なんでしょうかね。
どちらかと言うと、「日本の歴史や文化に触れる」的な言われ方をすることが多いように思いますが。

…うーん、なんか自分の考え方がだいぶ国文の人に感化されてきてるんでしょうか?(笑)

どうでもいい話ですが、どういうわけか休憩明けに生徒に携帯のカメラで激写されました。
これも初めてですけど…なんなんだ、一体?
「どーせろくな使われ方はしないんだろ」と思ってしまうのはヒガミでしょうか(笑)。