日本女性の時代装束展@京都市美術館。

今日は京都市美術館に『日本女性の時代装束展』を見に行ってきました。
「そんな展示やってたの?」と思われる方もいらっしゃるかもしれません。
実はこの展覧会、京都市美術館の主催ではないんですよね。

主催は京都染織文化協会という団体で、
展示品は、この団体が保管している「染織祭」に使用された100以上の衣裳でした。
…て、「染織祭」って何?
染織祭の歴史(公式HPより引用)
 1931年(昭和6年)4月11日、12日の両日、第一回染織祭が京都で執り行われた。この祭事は、全国の染織業の中心地である京都において、業界に携わるものが思いを一つにして染織講社を組織し、祖神の恩徳に感謝すると共に、将来の益々の発展を祈念すべく始められたものである。初日は岡崎公園に臨時の祭場を設け祖神を奉祀して祭典を行い、二日目には染織業界の団体が各自山車をしつらえ、造り物を先立てて市中を練り歩いた。
 祭は翌1932年(昭和7年)に第二回、そして1933年(昭和8年)には第三回と続いたが、祭の行列を染織の特技が発揮され、かつ歴史的に意義あらしめるため、第二回で先ず平安時代のやすらい踊りの衣裳が復元され、更に第三回には上古(古墳)時代より江戸時代後期に至る各列の衣裳を、当時の斯界第一人者の厳格な時代考証のもとに完成させ、列を連ねて祭場に参進したのであった。
(中略)
 しかし戦争への気運の高まりの中で、この染織祭を第三回で中止させることとなり、その時代衣裳のみが大切に保管され伝えられてきた。
(中略)
 1984年(昭和59年)5月26日には、宮崎友禅斎生誕330年を記念して、染織祭は「染織まつり」として復活し、50年ぶりに都大路を練り歩いた。行列の参加者は、50年前には京都の7遊郭の芸妓さんであったと資料に記載されているが、この時は全国から一般公募し、870名を超える応募者の中から選定が行われた。当日は好天の下、祖先への感謝と未来への願望が一つとなり、華々しく京の都大路に繰り広げられた。
ほへー、そんな歴史があったとは…。不覚にも知りませんでした。
てゆーか、これって今こそ復活させるべきお祭なのでは??
行政や企業にはぜひご検討いただきたいところです。

さて、展示の方はというと、実に面白かったです。
古墳時代→奈良→平安→鎌倉→室町→桃山→江戸と、時代順に女性の装束が展示されていました。
こうやって「時系列を追って装束を展示する」という企画は、ありそうでなかなかないんですよね。
装束の変遷が視覚的にわかって、すっきりしました。

実は以前から、「日本の女性の和服には袴(というか裳)がない」というのが、気になってたんですよ。
自分でそう思ったのではなくて、友人に言われて「そういえば…」と思ったんですが。
中国の漢服にしても(いわゆる「チャイナドレス」は清代に広まった、もともとは北方遊牧民の衣装だそうな)
朝鮮半島のチマにしても、スカート状のものが付くのが普通ですが、
日本の和服は重ね着はしますけど、基本ワンピース(?)ですよね。
で、いつからそうなってたんだろうな、と。

結論から言うと、裳なり袴なりが女性の装束から消えるのは、室町時代のようです。
対象が微妙に違うので難しいところですが、家に帰ってから近藤好和『装束の日本史』で確認したんで、
多分そういうことでしょう。

でも、鎌倉時代室町時代の違いって、実際の見た目にはわかりにくかったんです。
というのは、平安時代に入ってからは、裳や袴のさらに上に、唐衣などを羽織ってしまっているから。
そうなると、羽織っているものの下に裳や袴を付けているかどうかって、
よっぽど気にして見ないとわからないですよね。
実際、平安期以降の展示品には、ほとんど裳や袴が入っていませんでしたから。
そんなわけで、視覚的には奈良時代平安時代の間の差の方がずっと大きく感じられました。
どういう理由であそこまで大々的な変化が起こったのかなあ~。


個人的には、展示品のほとんどは衣文掛けに掛かってたんですが、
専門外の人間には、着ている時のイメージがわきにくかったです。
ただ、「デザインを見る」という点ではこの方がいいので、仕方ないでしょうね~。
あと、図録もできれば作ってほしかったけど、これもそうも行かないかな。
むしろ、公式HPで室町以降の装束は画像が見られるようになっているので、その点は素晴らしいと思います。