教育はなぜ役に立たないか(その1)。

塾で英語を教えていると、生徒がしばしばこう言います。

「なんで英語なんか勉強せなあかんの?」
「英語なんか何の役に立つん?」
「将来英語なんか使わへんから、勉強せんでええやん。」
エトセトラ、エトセトラ…。

こういうとき、たいていの場合、
生徒は「英語が何の役に立つか」という答えで納得することを求めているのではなく、
単に「勉強なんてめんどくさい」を別の表現で言い換えているだけなので、
僕は「高校入試で役に立つ。」とだけ答えるようにしています(←冷淡 笑)。

で。
この手の発言が一番聞かれる科目は多分英語だと思うのですが、
「英語」のところを他の科目に置き換えても十分成り立つことは、言うまでもありません。

「国語なんて普通にしゃべれたらええやん」
「計算なんか電卓使ったらええやん」
元素記号なんかなんで覚えやなあかんの」
「歴史なんか知らんでも生きていけるやん」
エトセトラ、エトセトラ…。

なるほど、こうしてみると、教育というものは、なんだか壮大な無駄の集積であるかのようです。
そう思うのは、何も単なる素人考えではありません。
最近はあまり聞かなくなりましたけど、ひと昔前は
「学校教育では教えている知識は、生きていく上で役に立たない」
と主張する教育評論家なんてザラだったんですから。
(最近この種の発言があまり取り上げられなくなった理由は、
 おそらく「ゆとり教育」への批判的な空気が強くなっているからでしょう。)

僕はへそ曲がりな人間なので(笑)、逆に考えてみたいのですが、
なぜ教育として教えられる内容は、それを受ける側が無駄だと感じるものが多いのでしょう?

このことについて、教育を受ける側の個人的な事情から一つ言えば、
「それはその人がその知識を活用せずにすむ人生を選択した結果であって、
 教育として教えられる内容の問題ではない。」
という要因は、確実にあります。

これはある意味で万能の言い訳にも見えますが、
実は「なぜ自分が必要としない知識を学ばなければならないか」ということの回答にはなりません。
今回考えてみたいのは、実はこの問いについてです。

というわけで、発想を逆転してみます。
各個人が必要と思う知識だけを学ぶ教育システムを採用すると、どうなるでしょう?
つまり、「オーダーメイドの教育」です。
これだと、論理的には教育を受ける側の労力の無駄はなくなるはずですよね。
たとえば、「英語なんて将来使わないから、僕は英語は受講しません」とか。
で、その時間は他のことに回して、めでたしめでたし…。

と、なるでしょうか?
僕はきっとそうならないと思います。その理由は2つ。

まず1つ目の理由。
仮想としての「オーダーメイドの教育」と、現行のいわば「レディメイドの教育」を
制度全体として比較した場合、一番の違いは必要なコストです。
これは、単純に小学校と大学とを比較すればわかることですが、
単位制というセミ-オーダーメイドの教育システムである大学の方が、学費はずっと高いですよね。
おそらく、究極のオーダーメイド教育は、各個人が家庭教師を個別に雇うという
なんだか古代ローマの上流家庭のような教育システムだと思いますが、
それがどれだけ高くつくものかというのは、容易に想像可能でしょう。

教育コストの問題がなぜ大切か。
それは、教育機会の平等のためです。
教育機会の平等というのは、ある意味で教育の社会福祉的な側面であると言えます。
もちろん、特に公教育というものが、国家支配のための装置として、
あるいは産業界が言うところの「良質な労働力」を生産するための装置として
機能しているということは百も承知しています。
しかし、それでも教育を受ける側にとって、現代社会を生きていくうえで、
教育から得られる知識・知能・知性・学歴…といったものは、やはり重要なものでしょう。

教育の単価が上がるということは、それだけ教育の享受者が減るということであり、
結局のところ、社会から弱者を切り捨てることにつながります。
現在でも、塾に行くなり家庭教師を雇うなりできる子供とできない子供の差はもちろん存在しますが、
それだからこそなおさら、国や社会が、公教育の教育コストを抑えつつ、
全体的な教育内容を維持していくことが大事なのではないでしょうか。


もう一つの理由は、「教育が教えるべき内容をどういう基準で決めるか」という話になりますが、
それについてはまた改めて。
(例によって、次にこの話題で書くのはいつになるのかさっぱりわかりませんけど 苦笑)