「道義的責任」とはなんだろうか。
昨日の毎日新聞の朝刊に、エノラ・ゲイ号の乗組員のインタビューが載っていました。
内容は毎日新聞のサイトで読めます。
広島原爆:エノラ・ゲイ乗組員ジェプソン氏 放射線被害、これほどとは…
広島原爆:エノラ・ゲイ乗組員ジェプソンさんの発言(要旨)
内容は毎日新聞のサイトで読めます。
広島原爆:エノラ・ゲイ乗組員ジェプソン氏 放射線被害、これほどとは…
広島原爆:エノラ・ゲイ乗組員ジェプソンさんの発言(要旨)
その中で気になったのは、
『オバマ大統領の道義的責任発言に「世間知らず、間違いだ」』
というくだりです。
4月5日にプラハでオバマ大統領が行った演説の、核兵器廃絶について触れた以下の部分ですね。
(全文はコチラでどうぞ)
『オバマ大統領の道義的責任発言に「世間知らず、間違いだ」』
というくだりです。
▽オバマ大統領の「道義的責任」発言は、この兵器を使用した米国に罪をかぶせ、あまりにも世間知らず(ナイーブ)な発言で間違っている。こうした発言はすべきでない。彼は我々の世代が死んでいくのを待っている。
▽この部隊の使命で唯一絶対の共感を得られる点は、戦争終結が目的だということだ。広島、長崎の原爆は戦争を早期に終結し、犠牲を回避するための唯一の選択だったと今でも確信している。
▽大統領が被爆地を訪問すれば、とても悪い気分になるだろう。また、原爆使用を謝罪すれば腹立たしい。
ここで言及されている「オバマ大統領の道義的責任発言」というのは、▽この部隊の使命で唯一絶対の共感を得られる点は、戦争終結が目的だということだ。広島、長崎の原爆は戦争を早期に終結し、犠牲を回避するための唯一の選択だったと今でも確信している。
▽大統領が被爆地を訪問すれば、とても悪い気分になるだろう。また、原爆使用を謝罪すれば腹立たしい。
4月5日にプラハでオバマ大統領が行った演説の、核兵器廃絶について触れた以下の部分ですね。
(全文はコチラでどうぞ)
原爆投下にいかなる責任が存在するのか?ということになった場合、
まず法的に、「非戦闘員に対する大量虐殺」という点で戦争犯罪に当たるだろうと思います。
この点は東京大空襲などと同様で、別に原子爆弾に限定された話ではないですよね。
なのですが、法的責任ということになると素人考えというわけにもいかないし、
あの時点で原爆投下という行為を法的に裁くということが可能なのかどうかは僕にはわかりませんし
なにより「道義的責任」というのとは方向性がずれるので、ここではちょっと脇に置いておきます。
まず法的に、「非戦闘員に対する大量虐殺」という点で戦争犯罪に当たるだろうと思います。
この点は東京大空襲などと同様で、別に原子爆弾に限定された話ではないですよね。
なのですが、法的責任ということになると素人考えというわけにもいかないし、
あの時点で原爆投下という行為を法的に裁くということが可能なのかどうかは僕にはわかりませんし
なにより「道義的責任」というのとは方向性がずれるので、ここではちょっと脇に置いておきます。
で、「道義的責任」についてです。
そもそもこれって原語ではなんていう表現だったの?と思ったので調べてみました。
「道義的責任」=「a moral responsibility」ですか。
要するに、法的責任はさておいて、人間としての道徳的な面で、ということなんでしょうね。
そもそもこれって原語ではなんていう表現だったの?と思ったので調べてみました。
And as a nuclear power - as the only nuclear power to have used a nuclear weapon - the United States has a moral responsibility to act.
(全文はコチラでどうぞ)「道義的責任」=「a moral responsibility」ですか。
要するに、法的責任はさておいて、人間としての道徳的な面で、ということなんでしょうね。
原子爆弾の製造に最初に成功したのが日本であれば、日本は間違いなく原子爆弾を使用したでしょう。
「日本」を「ナチス・ドイツ」なりなんなりのほかの固有名詞と置き換えても同じことです。
兵器は使用されるために開発されるのですから。
日本に対する原爆使用を正当化しようとする人たちの心情には、意識してか無意識にかはともかくとして、
「何で俺たちだけが非難されねばならんのか」というのはあるんだろうと思います。
そこに存在するのは、以前書いた、右曲がりな人たちの
「なぜ日本だけが植民地支配について謝罪しなければならないのか。みんなやってたじゃないか。」
という主張に通じるバカバカしさでしょう。
みんながやってたからといって、その行為が免罪されるわけではありません。
ただまあ、日本人は日本人で、自分たちが核兵器の開発を進めていたし、
開発に成功していたらおそらく使用していただろうことには、思いをいたすべきではあるでしょう。
「日本」を「ナチス・ドイツ」なりなんなりのほかの固有名詞と置き換えても同じことです。
兵器は使用されるために開発されるのですから。
日本に対する原爆使用を正当化しようとする人たちの心情には、意識してか無意識にかはともかくとして、
「何で俺たちだけが非難されねばならんのか」というのはあるんだろうと思います。
そこに存在するのは、以前書いた、右曲がりな人たちの
「なぜ日本だけが植民地支配について謝罪しなければならないのか。みんなやってたじゃないか。」
という主張に通じるバカバカしさでしょう。
みんながやってたからといって、その行為が免罪されるわけではありません。
ただまあ、日本人は日本人で、自分たちが核兵器の開発を進めていたし、
開発に成功していたらおそらく使用していただろうことには、思いをいたすべきではあるでしょう。
それともう一つ、この乗組員の談話で興味を引くのは、
「彼(=オバマ)は我々の世代が死んでいくのを待っている。」
という発言です。
ここから感じられるのは、
「お前ら後の時代の人間は安全なところから机上の空論を言うけれど、
当事者の俺たちは生きるか死ぬかの瀬戸際で戦っていたんだ。」
というニュアンスだと思うのですが。
「彼(=オバマ)は我々の世代が死んでいくのを待っている。」
という発言です。
ここから感じられるのは、
「お前ら後の時代の人間は安全なところから机上の空論を言うけれど、
当事者の俺たちは生きるか死ぬかの瀬戸際で戦っていたんだ。」
というニュアンスだと思うのですが。
これは声を大にして言いたいのですが、「安全なところから机上の空論を言う」という行為は、
現代を生きる私たちにとって、未来に対する責務だと思うのです。
現代を生きる私たちにとって、未来に対する責務だと思うのです。
現代社会において、核兵器の使用が無前提に認められると考える人は、おそらくほとんどいないでしょう。
せいぜいが「核を使用される可能性を防ぐための抑止力としての核保有」を認める程度であって、
「基本的に核兵器の使用は許されない行為である」という意見が多数派であると思います。
この乗組員の談話にしても、力点は「かつての原爆の投下は正当な行為であった」というところにあって、
「核兵器の使用は現在においても正当化される」というところにはないでしょう。
(正直なところ、インタビュアーは「現在における核兵器の使用は認められると思うか」という
問いかけを行うべきであったと思いますが。)
せいぜいが「核を使用される可能性を防ぐための抑止力としての核保有」を認める程度であって、
「基本的に核兵器の使用は許されない行為である」という意見が多数派であると思います。
この乗組員の談話にしても、力点は「かつての原爆の投下は正当な行為であった」というところにあって、
「核兵器の使用は現在においても正当化される」というところにはないでしょう。
(正直なところ、インタビュアーは「現在における核兵器の使用は認められると思うか」という
問いかけを行うべきであったと思いますが。)
というわけで、問題は「原子爆弾の使用は目的によって正当化されうるのか」ということと、
「現在において原子爆弾の使用が認められない場合、過去の原子爆弾の使用に道義的責任が生じるのか」
ということでしょう。
前者については、僕の意見は明確にNOです。
その考え方こそが戦争という行為を肯定する考え方の温床であり、
戦争がなくならない原因であるとすら考えます。
そして、後者についての意見はYESです。
むしろ、そこにこそ「道義的責任」というものの値打ちがあるのだろうと考えます。
過去の行為を遡及して法的に裁くことは不可能ですが、
「あれは許されない行為である」と一人一人が考えることは可能なのですから。
それが「道義的」という言葉の意味ではないでしょうか。
「現在において原子爆弾の使用が認められない場合、過去の原子爆弾の使用に道義的責任が生じるのか」
ということでしょう。
前者については、僕の意見は明確にNOです。
その考え方こそが戦争という行為を肯定する考え方の温床であり、
戦争がなくならない原因であるとすら考えます。
そして、後者についての意見はYESです。
むしろ、そこにこそ「道義的責任」というものの値打ちがあるのだろうと考えます。
過去の行為を遡及して法的に裁くことは不可能ですが、
「あれは許されない行為である」と一人一人が考えることは可能なのですから。
それが「道義的」という言葉の意味ではないでしょうか。
たとえそれが過去の人々から見れば「ええかっこしい」の「あと出しジャンケン」にしか見えなくても、
たとえそれが当時においては罪に問われない行為であったとしても、
それが現在において認められない行為であり、現在の問題と深く関わる内容なのであれば、
やはり私たちは、それを否定しなければならないでしょう。
過去の過ちを繰り返さないためにも。
過去の正当化は、将来の正当化の論拠となりかねないのですから。
たとえそれが当時においては罪に問われない行為であったとしても、
それが現在において認められない行為であり、現在の問題と深く関わる内容なのであれば、
やはり私たちは、それを否定しなければならないでしょう。
過去の過ちを繰り返さないためにも。
過去の正当化は、将来の正当化の論拠となりかねないのですから。