松本清張『ゼロの焦点』・『砂の器』(古びるもの・古びないもの 上)。

3月に入って、博論の締め切りやら来年度の準備やら新しい仕事やらで大忙しです。
そんなわけで、しばらくは遠出もままならないので、いろいろ溜めていた感想でも書いていこうかと。

トップバッターは、松本清張ゼロの焦点』・『砂の器』。
どちらも松本清張の代表作ですが、これまで読んだことがありませんでした。
で、正月に例によって祖父母の家に行った時に見つけて、せっかくなので読んでみようかと。

で、感想なんですが。
「あー、小説ってやっぱり賞味期限があるんだなあ」と。
ものすごーく、古びた作品と感じてしまったんですね。
それはいったいなぜなのか、以下考えてみたいのですが。

※以下、多少ネタバレありです。
まあ、有名過ぎる作品で、いまさらネタバレもなにもという感じですが。

さて、まずは内容紹介。
時代背景は、いずれも昭和30年代です。
ジャンルとしては、どちらもいわゆる社会派に属します。

ゼロの焦点』は、お見合いで結婚した新婚夫婦の新郎が、結婚直後に失踪して…というのが事件の発端。
残された新婦は当然夫の跡をたどるわけですが、
そのなかで、夫の隠された姿や周囲の人々の過去が明らかにされていきます。

砂の器』は、蒲田駅近辺で身元不明の他殺死体が発見されたことから事件が始まります。
捜査の中で、事件に関与した女性の存在が浮かび上がるのですが、
その女性を追うなかで、関係者が次々と変死し…。

文章のテンポが悪いとか、謎解きやトリックがいただけないというのは(特に『砂の器』)、
まあこの際大目に見ましょう。
きっと当時は、こうやって捜査の道筋を逐一記すのが、リアリティを出すための手法だったんでしょうね。
それでも、その「丹念な捜査」が効果を発揮するのは手掛かりを見つけたあとだけで、
手掛かり自体は恐ろしく偶発的に手に入るので、
だったらもう最初から名探偵を一人登場させておく方が、
叙述としてはよっぽどスピーディーでいいと思うんですが。
トリックにいたっては、「噴飯もの」ってこういう時に使う表現だよな…って感じです。


むしろ、「これはダメだな」って思ったのは、犯行動機なのです。
これがいわゆる「社会派」の作品ではキモになるわけですが。

ゼロの焦点』の犯行動機は、「パンパンとしての過去を知られるのを防ぐため」。
…って、説明なしで「パンパン」って書いて、どの程度の方がすんなりわかるんですかね?
えー、終戦直後、占領期に、進駐軍を相手に商売していた娼婦のことです。
って、この文は携帯で電車に乗ってる時間を利用して書いてるんですが、
「娼婦」は単語登録されてませんね(苦笑)。放送禁止用語やったりするんかなー。
まあ、いまどきこういう犯行動機を提示されて、なるほど!って思う人があまりいるとは思えません。

というか、実はこの犯行動機、作中ですら「そういえばそんなことも」的な扱いなのです。
昭和30年代に「わずか10年ほどで終戦直後のことが忘れ去られているけれど…」
というテレビ番組をやっている、という。
そら戦後65年を経過した現在ではねえ…。

砂の器』の犯行動機は、「ハンセン病患者の子供だった過去を知られるのを防ぐため」。
こちらに関しては、納得が行くかどうかの問題どころか、なんか読んでてちょっと腹が立つくらいでした。
なんていうか、すごく書き方が「浅い」んですよね。
ハンセン病患者や関係者について、別に差別の実態や生活の実相が掘り下げて描かれるわけではなく、
ただ刑事が容疑者の過去を探り当て、容疑者が過去を知られるのを防ぐために殺人を行ったということが、
犯行動機として読者に提示されるだけです。
これで「ああ、なるほどね」って思ったら、まかり間違うと<差別への加担>ですよね。
ついでですが、刑事の側に「ハンセン病患者の息子であることを隠させている私たち」
であることの罪悪感も、まったく見られません。

つまり、同時代の社会問題を扱っているのだけれど、
単に「こういうこともありますね」と提示しているだけで、
それに対する批判も怒りもない、と。
だから、その問題が過去のものになってしまったら作品としての寿命は尽きてしまうし、
現在でも存在する問題の場合、掘り下げが浅いと不満を生んでしまうわけです。
(余談ですが、だから教員、特に社会科の教員というのは、何かを知識として教える時には、
 やっぱり生徒に対して何がしかの態度を表明するべきなんだろうな、と思います。
 でないと受け手の側に残らないから。)
このあたりが、社会派の推理小説で今に至るまで読み継がれるものが少ない理由なのだと思います。

結局、松本清張作品で今でもドラマ化されるようなのって、
けものみち』にしても『わるいやつら』にしても『黒革の手帖』にしても、
テーマは「金と女と権力と謀略」ですよね。
(だからもう、あらすじを見た時点で読む気が失せるので読んでませんが)
これらの作品が繰り返し登場するのは、ようするにこれらのテーマが時代的な偏差の少ない、
いわば人間社会の「真実」のようなものだから、でしょう。


さて、社会派のアンチテーゼとして新本格派が登場するわけですが、
その源流がどこにあるかといえば、社会派以前の「本格推理小説」、
それも特に横溝正史作品です。
横溝作品もすべてが生き残っているわけではなくて、繰り返し登場する作品の多くは、
八つ墓村』や『犬神家の一族』といった、田舎を舞台にした作品です。
共通項は、「伝奇性と因習と地縁的共同体」なのだと思いますが、
横溝作品の生命力は、おそらくこうした土俗性という鉱脈を掘り当てたことによるのでしょう。
これもおそらく、人間社会の「真実」のようなものの一つなのだとおもいます。

そのことは、新本格の先触れとなった笠井潔や、新本格の旗手となった島田荘司の作品が、
名探偵とトリックという衣装を凝らしていても、動機の面では「縁と恨み」を機軸としていて、
せまい人間関係の中で事件を起こし「少数の疑いの濃い容疑者」を用意することで
犯人探しの謎解きを設定している、という形で受け継がれています。
結局、エンタテイメントとしての推理小説の形を追求すると、
これがひとつの完成形になる、っていうことだと思うんですよね。

これは余談ですが、こう考えると、島田作品の中で御手洗潔が名探偵として生き残り、
吉敷竹史がフェードアウトしていった理由が良くわかるんだよな~。
個人的に吉敷竹史の方が好きなので、非常に残念なのですが。