鶴林寺(播磨の国宝巡り・その1)。
鶴林寺は寺伝では589年(崇峻天皇2)に創建された寺院で、
聖徳太子が高麗から来日した僧である恵便のために建立したとされています。
実際、奈良期以前の聖観音像があることから見て、歴史は相当古いと考えられており、
太子町の斑鳩寺と同様、606年(推古天皇14)に聖徳太子が法華経を推古天皇に講じて
播磨国の水田100町を賜ったという『日本書紀』の記事との関連が言われています。
これも寺伝によると、創建時の名前は「四天王寺聖霊院」だったのが、
1112年(天永3)年に鳥羽天皇の勅願所とされた際に「鶴林寺」と改められました。
ちなみに「鶴林」とは、ブッダが入滅した沙羅双樹の林のことです。
聖徳太子が高麗から来日した僧である恵便のために建立したとされています。
実際、奈良期以前の聖観音像があることから見て、歴史は相当古いと考えられており、
太子町の斑鳩寺と同様、606年(推古天皇14)に聖徳太子が法華経を推古天皇に講じて
播磨国の水田100町を賜ったという『日本書紀』の記事との関連が言われています。
これも寺伝によると、創建時の名前は「四天王寺聖霊院」だったのが、
1112年(天永3)年に鳥羽天皇の勅願所とされた際に「鶴林寺」と改められました。
ちなみに「鶴林」とは、ブッダが入滅した沙羅双樹の林のことです。
国宝に指定されているのは、
・本堂
・本堂
・太子堂
の二つの建造物。
太子堂は、屋根板の墨書から1112年(天永3)に建てられたものとされています。
現在は太子堂と呼ばれていますが、もともとは法華堂で、
実際に法華三昧の修行が行われてきたために、堂内はかなり煤などが付着しています。
この太子堂の内部には来迎図と涅槃図が描かれていて、煤で覆われてほとんど肉眼では見えないのですが、
煤が逆にコーティングの役割を果たしたおかげで、赤外線撮影により全体像が鮮明に明らかになりました。
世の中、何が幸いするかわからないものです。
現在は太子堂と呼ばれていますが、もともとは法華堂で、
実際に法華三昧の修行が行われてきたために、堂内はかなり煤などが付着しています。
この太子堂の内部には来迎図と涅槃図が描かれていて、煤で覆われてほとんど肉眼では見えないのですが、
煤が逆にコーティングの役割を果たしたおかげで、赤外線撮影により全体像が鮮明に明らかになりました。
世の中、何が幸いするかわからないものです。
そのほか、文化財がいろいろと盛り沢山で、
見学時間1時間程度では写真も撮り切れないほどいろいろ見られて楽しかったです。
見学時間1時間程度では写真も撮り切れないほどいろいろ見られて楽しかったです。