叡福寺・聖徳太子御廟(竹内街道を行く・その5)。

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叡福寺は聖徳太子御廟があるお寺です。
寺伝では620年(推古28年)に聖徳太子が自ら廟所を造営したとされています。
で、翌年に穴穂部間人皇后(太子の母)が、その翌年に聖徳太子と妃の膳部大郎女が亡くなると、
3人がすべてこの廟所に葬られたので、「三骨一廟」と呼ばれている、と。
その後、推古天皇が陵墓を守る為に寺を建立し、さらに聖武天皇の勅願により整備されたのが叡福寺。
平安時代以後、聖徳太子信仰の霊場となりました。

で、戦国時代に織田信長の焼き討ちにより全焼し、現存する建造物の多くはその後の再建。
たとえば、聖霊殿(重要文化財)は豊臣秀頼により再建されたものなのですが…
しゃ、写真撮り忘れてますね、どうも。うーむ、信心が足りませんな(苦笑)。

もう一つ、1652年(承応元)に再建された多宝塔も重要文化財に指定されています。
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でもって、こちらが聖徳太子御廟。
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どこからどう見ても、他の天皇陵より立派(笑)。
よくわかりませんが、さすがに明治の廃仏毀釈の時も
「寺を止めて鳥居を建てよう」とかいうことにはならなかったんでしょうかねー。
つか、鳥居が建っている陵墓と建っていない陵墓の基準が良くわかりませんが。
法華堂とか多宝塔とか、仏教的な施設が残ってる場合は鳥居を建てないってことなんですかねえ。


ちなみに、叡福寺は「上之太子」と呼ばれ、「中之太子」=野中寺(羽曳野市)、
「下之太子」=大聖勝軍寺(八尾市)とともに三太子の一つに数えられています。
野中寺・大聖勝軍寺もいずれ遠征する予定ですが、さていつになることやら。