マタイ受難曲@京都・バッハ・ゾリステン。

京都・バッハ・ゾリステン結成30周年記念演奏会
バッハ『マタイ受難曲
指揮 福永吉宏
福音史家/アリア 畑儀文
エス/成瀬当正
ユダ/ペテロ/ピラト/司祭Ⅱ/アリア 篠部信宏
アリア 松田昌
アリア 福永圭子
管弦楽 京都・バッハ・ゾリステン
合唱 京都・バッハ・ゾリステン 京都フィグラールコール

というわけで、友人が入団して以来足繁く通っている京都・バッハ・ゾリステンの演奏会のレポです。
今回は演奏時間3時間超の大曲「マタイ受難曲」。
いつも感想は「スゴイ」としか書けないのですが、今回もスゴイ演奏でした。
単純に長いだけでなくて、技術的にも精神的にも本当に大変だと思うんですけどねー、
なんというか、緊張感のある、荘重で「深い」演奏会でした。

全員大変だと思うのですが、とりわけやっぱりすごいなと思ったのは福音史家。
全曲ほぼ出ずっぱりで、伴奏ほとんどなしの独唱が大半で、しかも超絶テナー。
しみじみ超人的です。

友人二人はなぜかパンフに付いている対訳までやっていてびっくりしました。
しかも、うち一人は曲目解説まで書いて、開演15分前までホールの仕切りもやってました。
本当にどこに行っても仕事ばかりしている人たちだ(笑)。
お疲れさま~。おかげで楽しめたよ。

さてそれで、今回聞いていて思ったのが、
マタイ受難曲」を翻案してミュージカルにしたら「ジーザス・クライスト・スーパースター」になるんだなあ、と。
両者の違いは「宗教」と「エンタテイメント」という点なわけですが、
具体的には、「マタイ」のコラール(合唱)をユダに割り振ると「ジーザス」になる、という仕組みです。
たとえば、「マタイ」の3曲目のコラール「心から愛するイエスよ、あなたは何をなさったのですか~」が、
ジーザス」では冒頭のユダの「私はイエスがわからない」に置き換わっていると考えるとわかりやすいでしょう。

マタイ受難曲」にしても「ヨハネ受難曲」にしても、キリスト教徒がミサなどで聞いた場合、
コラールは聞き手にとって、自分も含めた一人称「私たち」です。

コラールが「心から愛するイエスよ、あなたは何をなさったのですか~」と問題提起し、
エスの「あなたたちの中の一人が私を裏切るだろう」という言葉に
「主よ、それは私のことですか」とコラールが答え、
「それは私です、私こそが罪を償うべきなのです」と続けて歌う。
ペテロに続けてコラールが「私をあなどらないでください、あなたから私は離れません」と歌い、
三度イエスのことを「知らない」と言った後に慟哭するペテロのアリアに続けて、
「私は必ず、また御許に戻ってまいります」と歌うのもコラール。
裁判で「この男は死罪に値する!」と主張するのも、
エスとバラバのどちらを釈放するか問われて「バラバを!」と主張するのも
十字架上のイエスを「ごきげんようユダヤ人の王よ!」と嘲るのもコラール。
一方で、嘲られたイエスに「私の賞賛をお受け取りください」「まことに、この人は神の子であった」と歌うのも、
最後に、イエスへの哀悼と、その死によって自らが救済されたことへの良心の痛みを歌うのもコラールです。

要するに、コラールを通じて、聞き手は「自らの罪」と「イエスの愛による自らの救済」を追体験するのであり、
ヨハネ受難曲」はキリスト教徒にとって「私の」物語です。

で、そのコラールをユダに振り替えたらどうなるか。
ジーザス・クライスト・スーパースター」は、どこまでも「イエスとユダの物語」です。
聞き手にとって、感情移入の対象はもちろんユダですが、
ユダはあくまでも客体であり、私そのものではなく、
現代的自我とかいったような共通項によって私と結び付けられるものです。
この置き換えによって物語と私との間に距離を置くことで、
「キリストの受難」は「宗教」から「エンタテイメント」に転生したと言えるでしょう。
それをやってのけた、ライスとウェバーはやっぱりすごいということなんでしょうね。

逆に言うと、コラールがすんなり「私」になりえない、非キリスト教徒であるほとんどの日本人にとって、
この曲は他の宗教曲と比べても一層難しいんだろうなあと思います。
その中で、あの「深さ」が出せるこの団体はやっぱりすごいなあ、というのが結論ということで。