大江広元墓など(鎌倉ママチャリ縦横無尽 その10)。

鎌倉は「墓の町」です。
…とか言ったら、怒られますかね?
でも実際、あちこちにいろんな墓が点在してるんですが。

というわけで、荏柄天神社の次は、
そのやや西にある大江広元墓・毛利季光墓・島津忠久墓・三浦一族の墓です。
こちらがその登り口。
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市街地の裏山という風情なんですが、どうしてどうして、これがけっこう登ります。

で、途中にあるのが三浦一族のものと伝えられる墓。
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ご存知の通り、中世鎌倉の墓は「やぐら」と呼ばれる横穴式のお墓。
中には石造の五輪塔が置かれていることが多いです。
何でこんな形式のお墓になったかというと、
「鎌倉は狭くて法華堂を作っていたらキリがないから」というのが、今のところ通説のようです。

三浦一族は1247年(宝治元)の宝治合戦嫡流が滅亡してしまいますが、
(戦国期の三浦氏は三浦義澄の弟の佐原義連の系統)
その時に源頼朝の墓(法華堂、現白幡神社)で一族自殺して果てたと伝えられています。
和田塚にしてもそうですけど、鎌倉ってこういう場所が多いですよね。
稲村ガ崎なんて白骨がゴロゴロ出てきたような場所だぜ?(笑)

それでもって、奥まで行き着くと大江広元以下3人の墓と伝えられるやぐらが。
(正面からでは距離が取れなくて3つ全部入りきらないんですよ)
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大江広元
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言うまでもなく、幕府草創期の大物官僚。
この人が鎌倉幕府の舵取りに果たした役割は、相当大きいでしょうね。

毛利季光
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広元の四男ですが、宝治合戦で三浦氏に味方して同じく自害します。
戦国大名毛利氏はその末裔。

島津忠久
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もちろん戦国大名島津氏の先祖。
実父は惟宗忠康、養父は惟宗広言と考えられていますが、
島津氏は忠久のことを「源頼朝落胤」と称していました。

そんなわけで、江戸時代になってこれらのお墓を整備したのは、
薩摩藩第8代藩主で蘭癖大名としても知られる島津重豪です。
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「薩摩中将源重豪」と彫られています。