源氏三代墓(竹内街道を行く・その7)。

さて、叡福寺を見たあとは、時代がガラッと変わって摂関・院政期の史跡です。
竹内街道からももうかなり外れてしまうのですが、叡福寺から2kmほど離れたところに、
河内源氏三代(源頼信・頼義・義家)の墓というのがあります。
位置関係はこちらの地図をどうぞ。
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上ノ太子駅から歩くなら、順序的にはこちらを先にした方が効率はいいですね。
もうここは太子町ではなくて、お隣の羽曳野市なんですが。

源頼信
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清和源氏はじつは陽成源氏」という可能性が高いことを承知で、
とりあえず一般的な系図類に基づいて記すと、
清和天皇貞純親王源経基―満仲―頼信
ということになります。
頼信は満仲の三男で、長男は酒呑童子伝説で有名な頼光、
次男は興福寺にけんかを売って負けて失脚し、
「坊主を相手にけんかすると損をする」という実例を残した頼親ですね。
で、頼光の子孫は摂津源氏、頼親の子孫は大和源氏となりますが、
頼信が本拠地としたのがこの河内国壷井庄で、その子孫が河内源氏となった、というわけ。
頼信自身の事績は、なんと言っても平忠常の乱の平定でしょう。

源頼義
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その頼信の嫡男が頼義。
彼自身の事績としては、前九年合戦での勝利が著名ですね。
あと、のちの時代への影響という点では、平直方の婿となった結果、
直方の鎌倉の館を相続した点が特筆されます。
これが河内源氏と鎌倉との関係の端緒となるわけですから。

源義家
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で、頼義の嫡男が義家。言わずと知れた八幡太郎です。
もっとも、近年の研究の進展の結果、昔ほど華々しく評価されているわけでもありませんが…。
後三年合戦も、勝つには勝ったけど、勝ったことによる実益となるとこれといってありませんし。
嫡男の義親の濫行を抑止できなかった一点を以ってしても、
やはり評価は辛くならざるを得ないなあというのが個人的感想です。


ところで、源頼義の墓の前にある石灯籠ですが、
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銘文が写真では読みにくいですが、結論だけ言うと、柳沢吉保が寄進したものです。
なんでも、柳沢氏は頼義の三男である義光の末裔と称していたそうで、
(銘文には「新羅三郎二十代後裔」とあります)
通法寺が江戸時代に再興された際に吉保が普請奉行となったらしいのですが、その絡みなんでしょうね。

似たものをどっかで見たことがあるなーという記憶があったのですが、
京都の六孫王神社源経基を祀る神社)にある石灯籠だったんだな。なるほど、道理で。
(そのときのレポはこちらです。)

んで、源頼信墓のすぐ近くに、こんなものを見つけました。
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えー、大僧正隆光の墓です。
と言って、すぐピンと来る方がどのくらいいらっしゃるかわかりませんが、
徳川綱吉に「生類憐みの令」を勧めたとされる、
悪名高い?江戸時代の僧ですね(実際には濡れ衣のようですが)。
なんでも、通法寺(あとでまたレポを書きますが、河内源氏菩提寺)の中興に力を尽くしたのだとか。
ふーん、そういう人脈なのか。