安国寺(綾部)。
えーっと、なんかレポの順番が散り散りバラバラになってますが、こないだの光明寺の続きです。
元はといえば、この日は古文書学会の見学会で、綾部市にある丹波国の安国寺の文書を見に行ったのでした。
文書の見学会自体は寄託先の綾部市資料館であったのですが、
その後に安国寺そのものの見学も組まれていました。
で、資料館から車に乗せてもらって移動。なんてらくちんなんだ~(笑)。
元はといえば、この日は古文書学会の見学会で、綾部市にある丹波国の安国寺の文書を見に行ったのでした。
文書の見学会自体は寄託先の綾部市資料館であったのですが、
その後に安国寺そのものの見学も組まれていました。
で、資料館から車に乗せてもらって移動。なんてらくちんなんだ~(笑)。
全国制度としての安国寺は、足利尊氏が後醍醐天皇など戦乱の中で死んだ人たちの鎮魂などを目的として
設置したものですが、必ずしも新築はされずに、既存の寺院を安国寺とすることもしばしば行われました。
ここ丹波の安国寺もそのくちで、もとは993(正暦4)年に建立された光福寺という浄土系の寺院。
だもので、本堂には源信作と伝えられる地蔵菩薩(重文)が祀られています。
で、本尊の釈迦三尊像は南北朝期のもので、これまた重文。
お盆型の光背がなかなか個性的な仏様でした。
ところで。
上杉謙信などで上杉氏の存在は知っていても、
その名字の地である「上杉」がどこにあるかを即答できる人は少ないのではないでしょうか。
正直なところ、僕も現地に行くまで知らなかったのですが、
実は上杉氏の名字の地は、この安国寺があるあたりの丹波国何鹿郡上杉庄です。
もともと上杉氏は公家の出で(藤原氏勧修寺流)、鎌倉幕府の6代将軍宗尊親王にくっついて鎌倉に下り、
足利氏と婚姻関係を結んだり、上杉庄を手に入れたりして、結局自分も武士になってしまった、と。
(どーせ武士と公家の互換性を言うなら、こういう事例を取り上げればいいと思うんだけど…ぶつぶつ)
上杉謙信などで上杉氏の存在は知っていても、
その名字の地である「上杉」がどこにあるかを即答できる人は少ないのではないでしょうか。
正直なところ、僕も現地に行くまで知らなかったのですが、
実は上杉氏の名字の地は、この安国寺があるあたりの丹波国何鹿郡上杉庄です。
もともと上杉氏は公家の出で(藤原氏勧修寺流)、鎌倉幕府の6代将軍宗尊親王にくっついて鎌倉に下り、
足利氏と婚姻関係を結んだり、上杉庄を手に入れたりして、結局自分も武士になってしまった、と。
(どーせ武士と公家の互換性を言うなら、こういう事例を取り上げればいいと思うんだけど…ぶつぶつ)
で、そんなわけで、足利尊氏の母である上杉清子はこの地で尊氏を生んだと伝えられていて、
その伝承は信憑性があるんじゃないか、というのが現在の通説です。
尊氏は死後もここに葬られたとされていて、
現在安国寺には尊氏・上杉清子(母)・赤橋登子(妻)の3人の墓と伝えられる宝筐印塔があります。
左から順に、清子、尊氏、登子。
その伝承は信憑性があるんじゃないか、というのが現在の通説です。
尊氏は死後もここに葬られたとされていて、
現在安国寺には尊氏・上杉清子(母)・赤橋登子(妻)の3人の墓と伝えられる宝筐印塔があります。
左から順に、清子、尊氏、登子。
今回見学した文書も、そのあたりの事情を伝えるものがメインでした。眼福。
お寺の石段の下のほうには、尊氏の産湯の井戸と伝えられるものも。
まあそのへんは…ごにょごにょごにょ(笑)。
まあそのへんは…ごにょごにょごにょ(笑)。